基本情報

鎮座(所在地)
山口県山口市三の宮2-6-22
社格等
式内社
旧社格:県社
周防国三宮
御祭神
右殿:下照姫命(シタテルヒメノミコト)
中殿:表筒男命(ウワツツノオノミコト)、中筒男神(ナカツツノオノミコト)、底筒男命(ソコツツノオノミコト)
左殿:味鉏高彦根命(アジスキタカヒコネノミコト)
瑞珠殿:神産日神(カミムスビノカミ)他7柱
御神徳
織物・衣類の守護、交通安全、海上安全、五穀豊穣
縁起
社伝によると、大和時代の崇神天皇の御代七年(前91)までさかのぼることが出来る。しかし文献「文徳実録」には社格として平安時代の嘉祥三年(850)従五位に、貞観九年(867)従四位下に昇叙された記録を見ることが出来る。
『延喜式神名帳』(927)にも、式内社として「周防國吉敷郡の小一社」と記載されている。
鎌倉時代の建久六年(1195)の『周防国宮野荘立野文』に、宮野荘仁戸の社(仁壁)に神領のあったことがうかがえる。明治六年に県社に列せられる。
当神社は衣・食・住に関係する神様をお祀りしており、家内安全・交通安全など生活全般に至るご加護をいただける神社である。
『境内案内』より抜粋

交通情報
公共交通機関
JR山口線 宮野駅 徒歩11分
車
山口方面から国道9号線 陸上自衛隊山口駐屯地の交差点を右折、JR山口線の手前を左折、次を左折
駐車場
一の鳥居の先、二の鳥居脇に数台程度駐車スペースがあり。
(民家が直ぐそばにあるので、ご迷惑にならないよう注意しましょう。)
参拝記
最近、仕事の関係で山口に行くことが多い。日本全国、参拝したい神社は数限りなくあるが、たまたま仕事の出張などがあり、そういう機会もある種の「出会い」であるとも思って、時間を見つけて参拝するようにしている。
多少個人の思い込みや、山口県の人々と付き合う機会が増えてひいき目なところもあるとは思うのだが、山口はある意味文明の交差点ではないかと最近思っている。
太古、北部九州と出雲、吉備、大和に大きな文明があったことはほぼ確実で、特に北部九州は当時の大陸とかなり頻繁な交流をしていたと思われる。
そうした交流の成果は、現在の山口、古い地名で云えば周防や長門を通じて出雲や吉備などと交流していたのではないか、と思う。
前回書いた周防二宮の出雲神社などもその一つの形跡ではないかと思う。
周防二宮は読んで字のごとく出雲と関係の深い神社であるが、今回参拝した周防三宮 仁壁神社も同じく出雲と関係が深い、出雲から流れてきた神を祀っているように感じる。

本当に民家に囲まれた町中にあり、地域住民の方々が、それこそ参拝と肩肘張らずにふらっと境内に来て手を合わせていくような雰囲気の神社。
歴史は古く、崇神帝七年というから紀元前のこととなる。
境内案内にある「文徳実録」というのは「日本文徳天皇実録」のことで、六国史の一つ。
戦国時代には何度も火災に遭っているらしい。
1569年には大内輝弘の乱で消失し、毛利輝元により再建
1712年に火災で消失し、毛利吉元により再建
1997年ぶが放火により消失、2000年に再建




古代の人々はなぜこの地に衣食住の神、織物の神を祀ったのか?
下照姫命(シタテルヒメノミコト)というのは記紀においては葦原の中つ国平定のために二番目に使わされた天稚彦の妻として登場。
夫が高天原の返し矢によって死亡し、彼女は大声で泣いてその泣き声が高天原まで届いたという。
面白いのはそのときに葦原の中つ国に下りていったのが左殿に祀られている大国主神の子である味鉏高彦根命(アジスキタカヒコネノミコト)で、彼が天稚彦と似ていたのを国つ神(地上の神、恐らく豪族)が間違えたのに怒り、喪屋を壊してでていったといいう。
その際に、下照姫命は味鉏高彦根命の名を明かす歌を詠んだとのこと
仁壁神社に仲良く祀られている。
倭文(しとり)神社や靜神社という名前で倭文神や建葉槌命という織物の神様を祀っている神社(代表例:伯耆国一宮 倭文神社等)があるが、例えば伯耆国一宮の倭文神社などは社伝に多くの下照姫命の話が残るという。
大国主との関係で云えば、やはり出雲地方からやってきた神様なのだろうか?
大鳥居脇には古びて趣のある「式内 仁壁社」の文字。

現在の地名も「三の宮」であり、地元の誇りなのであろう。
なぜか境内に「硫黄島の砂」があり、「この砂は、第2次大戦で激戦地となりました硫黄島の砂です」との案内がある。

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