基本情報

鎮座(所在地)
山口県山口市徳地堀3572
社格等
周防国二宮
式内 周防國佐波郡 出雲神社二座
旧社格:県社
御祭神
大己貴命(オオナムチノミコト)
事代主命(コトシロヌシノミコト)
御神徳
治世、福徳、縁結び、開運、農耕、商工業、医薬
縁起
本神社は周防国二宮としてその起源は古く、太古出雲種族の佐波川流域への膨張発展に伴い、その祖神を鎮祭したものと考えられます。 鎮座は元正天皇の霊亀元年(715)と伝えられ、聖武天皇の天平九年(737)周防国二宮として勅許を受け、奈良時代の周防国正税帳にもその神戸・神田の奉納の記述が見受けられます。 平安時代初期の延喜式神名帳(927)に周防国出雲神社二座として式内に勅撰されました。 以降、藩主の祈願所として篤い崇敬のもとに、徳地方の総氏神として営繕護持されてまいりました。 明治33年旧県社に列格、第二次大戦後も太古より受け継がれた氏子崇敬者の伝統的敬神崇祖の念は厚く、当地方はもとより県内でも希有の古社として現在に至っております。
出雲神社境内案内書「神社一覧」より抜粋

交通情報
公共交通機関
JR山口線 仁保駅から車で20分
車
中国自動車道 徳地ICから国道376号線経由で4.2km(6分)
(駐車場)
一の鳥居脇に2~3台駐車できるスペースがあり。
参拝記
最近立て続けに山口県内の投稿が続く。山口県や萩市の方々と一緒に活動をしており、その関係で出張する度に山口県内の神社の参拝を続けている。子どもの頃、「おいでませ、山口へ」のCMをよくテレビで見ていたが、仕事で関わるようになったのが今から約3年前で、今まで一度も訪問したことすらなかった。おかげさまで山口県内の参拝神社リストがうなぎ登りだ。
さて、今回は周防国二宮の出雲神社。皆様おなじみの出雲といえば出雲大社だが、出雲大社教の神社ではない。鎮座は西暦715年とされていて、大昔に出雲族がこの周防国まで膨張発展してきた際に、自分たちの地元の神様を祀ったのではないかとされている。
出雲族と云えば古墳が有名で、「四隅突出型古墳」というのが有名。古墳と云えば、最近世界遺産推薦で話題になった「(伝)仁徳天皇陵古墳(大山古墳)」の形状である「前方後円墳」が有名であるが、古代の世界ではこの「四隅突出型古墳」というのももう一つの勢力であった。恐らく、古墳時代になって「前方後円墳」が築かれ、大和族(天孫族?)の勢力と共に普及してゆく前のもので、四角い形をした古墳の四隅が足のように伸びている独特のスタイルで、主に出雲族が築いていたと考えられている。山陰地方、特に鳥取県・島根県あたりから福井県・石川県・富山県あたりにまで勢力が及んでおり、恐らく出雲族の勢力も同様に広がっていたのではと考える。
さて、問題なのは『富山県婦中町千坊山遺跡群試掘調査報告書』の「 四隅突出型古墳 全国遺跡報告総覧」によると、「四隅突出型古墳」は周防国周辺は見られていない。もちろんまだ発見されていないだけかもしれないが。この頃は、出雲族や吉備族、そして北九州一帯を支配していた豪族、後の大和族などが波を争っていた可能性があり、このあたりはその最前線基地であったかもしれない。いずれにせよ、本社の鎮座が西暦715年ということは8世紀前半であり、既にこのあたりの決着がついて政治の重心が大和地方に移った後と推測される。もしかしたら、新たな時代を迎えて出雲族が本社の脇を流れる佐波川を経由してこの地に移り住んだ者達がいて、独自に出雲族としての発展の道を探っていたのかもしれない。
佐波川の流れが作った山間の平地地帯で、古くは増水や洪水などもあったのだろう。今は周囲はのどかな田園風景で、参道や境内、本殿なども歴史を感じさせるが、手入れはキチンとされているようだ。


佐波川から国道376号線が山間に入る角に同社の金属製の看板となにやら磐座のような祭祀遺跡のようなものがある。境内に「ツルマンリョウ自生地」と案内がされていて、本来九州の屋久島や台湾等に自生する南方系の植物で、本社の自生地が北限とのこと。また、山口市の天然記念物に指定されているご神木「二の宮の大杉」も堂々たる風格。鎮守の森は確実に守られてきたことを思わせる。

境内には宇佐八幡宮(応神天皇・神功皇后)と若宮八幡宮(誉田天皇=応神天皇?・仁徳天皇)が末社として鎮座。いずれにも毛利家の家紋が掛けられていた。


大和族との首位争いには負けても、最後まで諦めないと行ったところだろうか。
境内に神職か氏子の方がいらっしゃって、「あついですねえ」と声を掛けて頂いた。社務所は閉まっていたので、この方に御朱印のことをおたずねしようかと思ったが、お忙しそうだったので遠慮した。
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