基本情報

社名碑
鎮座(所在地)
東京都大田区本羽田3-9-12
社格等
旧社格:村社
羽田総鎮守

羽田神社拝殿
御祭神
主祭神
須佐之男命(すさのおのみこと)
稲田姫尊(いなだひめのみこと)
境内摂末社
(境内末社)羽田稲荷神社
(境内末社)日枝神社
(境内末社)増田稲荷神社
(境内末社)鈴納稲荷神社
縁起
羽田総鎮守・羽田神社は、羽田の「氏神様」として羽田全域から現羽田空港まで広い氏子区域を有します。特に航空会社各社の崇敬の念も篤く、正月から年間を通じて運航安全・航空安全祈願の参詣があります。また、文久元年(1861年)に疱瘡(天然痘)が蔓延。将軍・徳川家定が病気平癒祈願に参詣し治癒した故事により、多くの参拝者が病気平癒を祈願しています。御祭神は「須佐之男命(すさのおのみこと)」と「稲田姫命(いなだひめのみこと)」の二柱・ご夫婦の神様をお祀りしています。「えんむすび」「勝負事」のご神徳でも知られています。その由来は、約800年前の鎌倉時代、羽田浦の水軍で領主だった行方与次郎(なめかたよじろう)が牛頭天王(ごずてんのう)を祀った事からとされ、今日でも羽田神社を「てんのうさん」と親しみを込めて呼ぶ人がいるのは、その名残りです。徳川時代には、徳川家、島津家、藤堂家などに厚く信仰されました。明治元年(1869年)、自性院境内に祀られていた牛頭天王社は八雲神社(やぐもじんじゃ)として独立、明治40年に羽田神社と改称、現在に至ります。昭和63年5月新社殿が竣工、平成18年3月お塗り替え工事終了。尚一層の神慮が深まり霊験あらたかな御社として氏子を見守っています。明治初年に造られた「羽田富士」も見どころの一つ。富士山に憧れた当時の人々がその姿を模倣して造った築山で、大田区文化財に指定されています。『羽田神社ウェブサイト』より抜粋 https://www.hanedajinja.com/jinja/index.htm
交通情報
公共交通機関
京浜急行空港線 大鳥居駅 徒歩5分
車
首都高速横羽線(1号線)羽田ランプから環八通りへ、大鳥居交差点を左折して産業道路に入り大師橋北詰交差点あたり
駐車場
手水舎脇に駐車場あり(5-6台程度)
参拝記
毎月恒例月末病院通いで大森付近まで来たので、またもや大田区周辺近傍の神社に参拝させていただくことに。
いつもなら土曜日はめちゃめちゃ病院が混んでいて、予約をしても2時間近く待たされるのでうんざりだが、さすがにこれだけTVで外出自粛!とやっていると不要不急の病院通いも減っているようで、ちょっと拍子抜けするほどさくっと診察終了。
そして本日は穴守稲荷方面に向かうことにしてまずは羽田神社。
羽田と言えば空港の街。そんなところに神社??
羽田と言えば日本最大の航空の街で、もちろん航空の神様として航空会社やその従事者からの崇敬も厚いようだが、実は歴史はかなり古く、遡ること約800年も前。
当時は今のように埋め立てなどほとんどなかったはずだし、その羽田の領主&海の水軍の主であった行方与次郎という人が牛頭天王を祀ったのがはじめとされる。
午頭天王というのは、近代になって神仏分離になるまえの神仏習合の時代に、須佐之男命の仏としての姿(本地)、そして「薬師如来」の仮の姿(垂迹)として信仰された神様。
よく、京都の八坂神社で祀られる「祇園」神様に対する信仰と同じである。
その後、1869年に午頭天王社が八雲神社となり、1909年に羽田神社となった。
境内には4つの稲荷社と1つの富士塚がある。
江戸の人々が熱狂した「歩いて行ける富士山」=富士塚

富士塚入口
境内には羽田富士といういわゆる富士塚がある。このあたりは結構富士塚がある、というイメージで、例えば品川神社等にも富士塚があったと記憶している。なぜ江戸に富士塚が沢山あるのか少し調べてみた。大田区文化財 富士塚富士塚は、富士山の信仰団体である富士講の講員たちが、実際の富士山に登れない者のために、富士山を模して築いた人口の小山である。この塚は大田区で唯一の存在で、俗に「羽田富士」と呼ばれ、明治初年に築造されたと伝えられる。富士講の人々が富士山に見立てた富士塚を登詣する習俗は、江戸中期の安永(1772-1780)の頃から、関東を中心として各地に起こったといわれる。羽田ではこの習俗が昭和50年代頃まで、毎年七月一日の山開きに行われていた。昭和四十九年二月二日 指定 大田区教育委員会『羽田神社境内 富士塚案内板』より

富士塚案内板

富士塚
山岳登拝を目的とした冨士講は化政期(1804~30年)には江戸を中心に爆発的な隆盛を見た。富士講は角行を開祖、身禄を講祖とし、先達・講元・世話人の三役を指導者にして、講員は江戸や関東の各地に富士山を模した富士塚(浅間塚)と呼ばれる人造の山を富士の溶岩(黒ボク)を持ち込んで築いた。この塚は富士の遥拝所又は代理登山の場所としての性格があった。六月朔日の御山開き(初山)には、各家は山を遥拝し、講中は白装束の行衣に金剛杖を持ち、六根清浄と唱えて模擬登山を行ったり、近隣の七カ所の富士塚を巡る七富士参りの習俗もあった。『【縮刷版】神道事典』国学院大学日本文化研究所 編弘文堂発行
なるほど、七富士参りという位多くの神社仏閣にこうした施設があったようだ。
羽田神社は大田区唯一で、確かに品川神社はギリギリ品川区ですしね。
羽田神社の富士塚は一応パーティションで出入り禁止になってはいるものの、実際の富士講からの石碑の寄進や登った後もあるようで、江戸の人々の一つの信仰の形であったり、別の意味ではアミューズメントだったのかもしれない。

羽田神社拝殿
徳川将軍が感染症を祈った神社
境内の4つの稲荷社の他に金属のフェンスに囲まれた「八雲神社之碑」というものがある。
「八雲神社之碑」は天保期に流行した疱瘡(恐らく天然痘)の治癒祈願に徳川家定が参拝に訪れた自席によるものだそうだ。
新型コロナウィルスにおびえる現代の社会にも通じる。
また、稲荷社も当時の周囲の状況から、それぞれ洪水・風雨などを防ぐための祈願として各地にあったものが合祀されているようだ。
さすがに大都会東京の神社なので敷地面積はそれほど広くないのだが、境内はかなり盛り沢山。
境内4つの末社もきれいに整備されている。

鈴納稲荷神社

羽田稲荷神社

増田稲荷神社

日枝神社
この後に参拝した穴守稲荷神社も戦後GHQに鎮座地を接収されて羽田神社に合祀されていた時期もあるとのこと。
都会の神社ならではの様々な歴史が大都会の中でも息づいていた。
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