草薙伝説の地は本当に静岡?(静岡県)久佐奈岐神社

久佐奈岐神社大鳥居・参道入り口
久佐奈岐神社大鳥居・参道入り口
この記事は約11分で読めます。

基本情報

久佐奈岐神社本殿

久佐奈岐神社本殿

鎮座(所在地)

静岡県静岡市清水区山切101

創祀

不詳

社格等

式内社(小):庵原郡三座(久佐奈岐神社)
旧社格:郷社

御祭神

主祭神

日本武尊(やまとたけるのみこと)

合祀(配祀)

弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)
吉備武彦命(きびたけひこのみこと)
大伴武日連命(おおともたけひのむらじのみこと)
膳夫七掬胸脛命(かしわでななつかはぎのみこと)

本殿(柵の中を撮影)

本殿(柵の中を撮影)

境内社

稲荷社(宇迦之御魂命)
白鬚社(武内宿禰)
天満宮(菅原道真)
雨之宮(天之水分神、国之水分神)
津島社(須佐之男命、稲田比女命)
金刀比羅社(金山彦命、大国主命)
今宮社(素嗚命、稲田比女命)
九万八千霊社(東征軍の御供の諸神)
事比羅社(金山彦命、大国主命、少彦名命)
雨之宮社(志那都比古命、志那都比賣命)

久佐奈岐神社境内摂末社

久佐奈岐神社境内摂末社

縁起

庵原川流域には古代には廬原(いほはら)の国と呼ばれ、その政治的中心となったのが、庵原古墳群の立地する丘陵に囲まれたこの平野であります。
当社は人皇第十二代景行天皇の時代(西暦一一〇年、約一八八四年前)に詔勅により皇子日本武尊が東征の途中この地に本営を設けたとされる旧蹟の地にあります。
創立年代は古くして不詳ですが、討征の副将軍として活躍した、吉備武彦命が後にその功績により廬原の国を賜り、尊の縁の深いこの地に社殿を造営し日本武尊を祀ったのが創祀とされ、其の後お供として討征に随行した姫、弟橘媛命を初め諸神を合したものと考えられております。
文献上の記録では風土記に第十三代稚足彦(成務天皇)の元年(西暦一三三年、約一八六一年前)に官幣を奉るとあり、異本類従六国史に清和天皇、貞観元年(西暦八五九年、一一三五年前)久佐奈岐神社従二位を授くとある。延喜式(平安時代初期の儀式や制度を定めた律令の施行細則)神名帳には廬原郡三座(久佐奈岐神社・御穂神社(三保)・豊積神社(由比))と記載されており、式内社であります。
昔は有度の久佐奈岐神社に対し、東久佐奈岐神社、或いは東草薙大明神等と称えられたこともありましたが、明治六年郷社に列せられてからは、今の社名となっております。

『久佐奈岐神社 境内案内板』より抜粋

交通情報

公共交通機関

JR東海道線 清水駅より茂畑行きバスにて17分 草ヶ谷バス停下車 徒歩9分(750m)

東名高速道路 清水ICら静清バイパスへ 庵原川を越えたところで左折し川沿いに進む

駐車場

付近に駐車場はなし。民家や果樹園が密集している場所なので、周囲の迷惑にならないように細心の注意が必要

https://btimes.jp/?utm_source=valuecommerce&utm_medium=affiliate&waad=o5hSamnt
自家用車・レンタカーによる静岡での神社参拝には駐車場の事前予約をおすすめします。

 

参拝記

日本武尊の草薙伝説の同名神社と文字は違うがその当時の縁起を色濃く残す神社。

当社は、山切川(下流で庵原川と合流)が削った段丘の丘陵部分と思われる場所にあり、参道入り口の鳥居から120m位の緩やかな坂道と階段を上ったところに境内がある。

久佐奈岐神社大鳥居・参道入り口

久佐奈岐神社大鳥居・参道入り口

中央に神楽殿(又はこちらが拝殿か?)とおぼしき建物と賽銭箱が、その裏手の更に急な階段を数段上がった一段高い場所に本殿がある。

久佐奈岐神社神楽殿(拝殿)内観

久佐奈岐神社神楽殿(拝殿)内観

久佐奈岐神社神楽殿(拝殿)外観

久佐奈岐神社神楽殿(拝殿)外観

本殿手前に柵がかかっていて、その中には入れないため、実際の参拝は神楽殿(拝殿?)か柵の手前で行う必要がある。
本殿に向かって左側の少し高い場所に摂末社が鎮座している。
本殿に向かって左側は道路や住宅街に面していてチェーンがはられている。人が通ることは簡単だが、車両をこのスペースに置くことはできない。
周囲は坂道沿いに住宅地や果樹園に囲まれているが、参道入り口から本殿に到るまでのこの一角だけがタイムスリップしたかのように木々に囲まれて苔むした道が通じている。

久佐奈岐神社社頭案内板

久佐奈岐神社社頭案内板

草薙伝説はあまりに有名で、正直いろいろ分かった気でいたが、改めて参拝後に記紀を読み直してみることにした。

この年、日本武尊は、初めて駿河に行かれた。そこの賊が従ったように見せ、欺いて「この野には大鹿が多く、その吐く息は朝霧のようで、足は若木のようです。おいでになって狩りをなさいませ。」といった。日本武尊はその言葉を信じて、野に入り狩りをなされた。賊は皇子を殺そうという気があって、その野に火を放った。皇子は欺かれたと気づき、火打ち石を取り出し火をつけて、迎え火を作り逃れることができた。ー一説には皇子の差しておられる天叢雲剣が、自ら抜け出して傍び草をなぎ払い、これによって難を逃れられた。それでその剣を名づけて草薙というと-・皇子のいわれるのに、「ほとんど欺かれるところであった。」と。ことごとくその賊どもを焼き滅した。だからそこを名づけて焼津(静岡県焼津市)という。
『全現代語訳 日本書紀 上』宇治谷 盂著 「日本武尊の再征」より引用

 

そして相模国にお着きになったとき、その国造がヤマトタケルノ命をだまして、「この野の中に大きな沼があります。この沼の中に住んでいる神は、ひどく強暴な神でございます。」と申し上げた。そこでその神をごらんになるために、その野にお入りになった。するとその国造は火をその野原につけた。それでヤマトタケルノ命は、だまされたとお気づきになって、叔母のヤマトヒメノ命の下さった袋の口を解いて開けてごらんになると、火打石がその中にあった。そこでまず御刀で草を刈りはらい、その火打石で火を打ち出して向かい火をつけて、燃え迫ってくる火を退けて、その野を無事に出て、その国造どもをみな斬り殺して、直ちに火をつけてお焼きになった。それで、今もその地を焼津というのである。
『古事記(中)全訳注』次田 真幸著 「倭建命の東国征討 現代語訳」より引用

あれ、・・・。

静岡県焼津の地名譚についてはほぼ内容は一致しているものの、

  1. 焼き殺した対象が日本書紀は「賊」、古事記は「国造」
  2. 草薙伝説の発生した場所が日本書紀は「駿河国(静岡県)」、古事記は「相模国(神奈川県)」
  3. 草を薙ぎ払う部分は一致しているが、日本書紀は「薙ぎ払う」だけ、古事記は「薙ぎ払って火打石で向かい火」

と異なっている。特に大きいのは「草薙」の地名譚としての記述はいずれにもなく、しかも相模国と駿河国とそもそも場所が違う。(なお、古事記には相武国と記載されているがいずれにせよ神奈川県であることには変わりない。)

そもそも草薙の地と焼津は30km位離れている。
古事記の作者から見て、このあたりの位置関係が整理できていないのだろうか?
確かに焼津の地名譚がある以上、この事件の発生した場所が神奈川県とするのは少し無理があるとは言える。
『古事記(中)全訳注』には作者による解説があり、「(日本書紀の)景行紀に駿河国とあるのが正しい」と記載の誤りであるという見解が記されている。果たして本当だろうか?

古事記や日本書紀の原書に当たるという人もいる『ホツマツタヱ』という文献がある。一般的には偽書であるとされているが、古事記や日本書紀に出てくるエピソードが同じように出てくるため、比較してみると面白い。もちろんこれが真書か偽書かの判断は私にはつかないが。
『ホツマツタヱ』の「ヤマトタケルノ東征とオトタチバナ姫」という箇所がちょうどそれに当たるので見てみる。

事の急変を知ったヒタカミは急ぎモトヒコに使いを遣り、味方につけようと色々工作しますが、頑として傾きませんでした。サガム(相模)の小野に城を構えて、テシとマシ等が将兵を率いて守りを堅め、ヤマトタケの御幸狩(みゆきがり)を今か今かと待ち望んでいました。エミシ(東夷)の類(やから)の対応は素早く、ヤマトタケは富士の裾野でまもなくエゾ等と出会います。事前に待ち構えていたエゾ等は計略をはかり、ことば巧みに申すには、「この辺は、野鹿の息が霧のように立ち昇り、しばしば野を踏みしだいて困ります。木の枝の乱れ絡みで鹿の道が解ります。どうぞ望み巡りて狩って下さい」

これを聞いた君は、「げに」とばかり鹿を求めて野に入りました。頃を見計らって賊等が火を枯野に放って焼きます。ここで君は、欺かれた事を知るとすぐに切り火を起こして、向かえ火を放ちました。そしてヤマト姫から授かった錦袋から取り出した火水埴(ヒミヅ)の祓(はら)いを三度祈りました。と、間もなく東風が西風へと急変し、火が仇の頭上に覆うのを見た味方の兵は、賊共を草中に追い回し相戦っている時、君がムラクモの剣を抜いて草を薙ぎ払うと賊軍の周囲に燃え草が飛び行き、一気に野火が燃え広がって、ついに賊軍(アダイクサ)を焼き滅ぼしてしまいました。ここがヤケズノ(焼津)と言い、この時から剣の名前もクサナギの剣と呼ぶようになりました。

より引用

鹿を狩るエピソードは日本書紀と同様であるが、その敵については「賊」としていて日本書紀と同様の記述、しかし、その場所については「サガム=相模(相武)」の小野、という表現になっている。(前述の古事記の抜粋に入っていないが、古事記でも「相武の小野」という表現で、小野が「小野」という地名なのか、一般名詞としての「小さい野」なのか、いろいろと議論があるようだ。)
私のも神奈川県在住であるので分かるが、現在の横浜市は旧武蔵国であり、相模の「相」と武蔵の「武」で相武(そうぶ)という言い方はよくする。相武隧道という横浜市の金沢区と栄区を結ぶトンネルは相模と武蔵の国境という意味を持っていたりする。

日本武尊の東征談は、この駿河の草薙・焼津の後に足柄峠を越えて、横須賀の走水から下総国に抜けるストーリーが待っている。

草薙の地は果たして静岡県か?それとも神奈川県か?
まあ、素直に考えれば焼津からそれほど遠くない場所にある地なはずなので、静岡だとは思うが、なぜそういう誤りが起きたか興味があるところだ。

歴代天皇の年代についてはいろいろ異論があるため、本当の意味で前述のエピソードの時期が2世紀前半であるかわからないが、そのまま捉えれば2世紀前半と言うことは弥生時代の終わりに当たる。
その時代に、大和朝廷がどこまで勢力を伸ばしていたか、ということになります。
この久佐奈岐神社の川を隔てて向かい側の尾根の先端に「三池平古墳」という比較的大きな古墳がある。当時の有力豪族が祀られている前方後円墳と言われており、昭和三十三年の調査によれば古墳時代中期初頭(5世紀前半)ごろの築造とされている。
前方後円墳はヤマト政権のある種のシンボルとも言われているため、4世紀後半~5世紀初頭には遅くともヤマト政権の影響下にこの地があったことは想像できる。

草薙伝説のストーリーの「賊」「国造」であるが、この地域に国造が置かれたのは何時のことかを調べてみた。
有名な『先代旧事本紀』の「国造本紀」には国造に任命された家の祖先伝承が記載されている。
駿河(珠流河)国に初めて国造が置かれたのは成務天皇朝とされていて、その際には駿河国駿河軍を中心にしたとされている。

一方、久佐奈岐神社の社頭に置かれた案内板によれば、この庵原(いおはら)の地にも国造が置かれたことになっている。
庵原国造の支配地は駿河国西部であり、「国造本紀」では日本武尊の東征の副将軍として従った吉備武彦命=日本武尊の叔父、の子である思加部彦命(意加部彦命)がその祖とされている。この意加部彦命も成務天皇朝に任命されている。つまり、日本武尊の父である景行天皇の次の天皇の代と言うことだ。

ということは、やはり日本武尊の東征の時期以降にこの地が大和朝廷として正式な支配ができるようになったか、あるいは国造を置くくらい重要な地域となったと言うことだろう。
そういう意味では日本武尊の東征時に国造が彼を襲撃したというのはちょっとおかしい気がする。

当社の周辺に古墳がかなり集中しているのも、このあたりが現在駿河と呼ばれる地域の中でも発展していた地域の一つである事は間違いなく、古墳が4世紀後半~5世紀初頭頃、この地域に国造が置かれるなど発展を遂げていることをあわせると、日本武尊がこの地を通り過ぎた時期も少し伝説では早すぎるのではないか?

先日ある書籍を読んでいたら、古い天皇の在籍年は1年を2年分カウントすると矛盾が解ける、という話があり、実際に中国でもそういうカウント方法をしていた時期があったそうで、こうした考え方をしていくともしかしたら本当の日本武尊活躍の時期も分かるようになるかもしれない。

草薙伝説は今のところやはり静岡発祥と思われるが、もしかしたら神奈川県の足柄峠より東側で、かつ横須賀の走水海岸より西側で、「小野」という地名が見つかれば、伝説の真実が暴かれるかもしれませんね。

御朱印

宮司さんが常駐していないため頂戴できませんでした。

タイトルとURLをコピーしました