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黄泉の国の入口をまもる社(島根県)揖夜神社

揖夜神社 御朱印 島根県の神社
揖夜神社 御朱印
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[基本情報]

揖夜神社 御朱印

揖夜神社 御朱印

揖夜神社 鳥居

<鎮座(所在地)>

島根県松江市東出雲町揖屋2229

<社格等>

式内社
意宇六社
旧社格:郷社→県社

<御祭神>

伊弉冉尊(いざなみのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
事代主神(ことしろぬしのみこと)

<御神徳>

五穀豊穣、商売繁盛、豊漁、航海安全、交通安全、技芸上達、学業成就

<縁起>

御鎮座についての詳細は不明ですが、古事記神代巻には「伊賦夜坂(いふやざか)」について記述があり、日本書紀斉明天皇五年の条に「言屋社(いうやのやしろ)」、出雲国風土記に「伊布夜社(いふやのやしろ)」、延喜式神名帳に「揖夜神社(いふやじんじゃ)」の記述があり、平安朝以前から広く知られていた古社であります。
古より朝廷の崇敬が篤く、「三大實録(さんだいじつろく)」には、清和天皇の貞観十三年に「正五位下」の御神階が授けられた記録があります。
武将の崇敬も篤く、大内氏、尼子氏、毛利氏、堀尾氏、京極氏、松平氏がそれぞれ寄進や社殿の修造を行っています。
また、社殿の営繕は松江藩作事方で行われ、御遷宮には藩主の代参がありました。
当社は出雲国造と関係が深い「意宇六社」の一であり、御遷宮には今でも出雲国造のご奉仕があります。
『境内案内「<特別神社>揖夜神社」より』

揖夜神社 社内掲示

六社さんと呼ばれる出雲国意宇郡(現松江市の一部)にある、国造家ゆかりの六社神社の一社として、崇敬されている揖夜神社ですが、古くは『古事記』『日本書紀』や『出雲風土記』に記述があり、少なくとも平安朝以前には広く知られていた由緒ある古社であります。
その古い神社としての佇まいについて、嘗て作家の司馬遼太郎氏が当社を訪れ、自著の『街道をゆく』の中に以下の様に記載されています。
『どうやらそのあたりは古くは揖屋(いふや:揖夜、言夜)といった界隈のようだった。イフヤという地名は、いったい何語の、どういう意味なのであろう。 車をとめた場所が、たまたま揖夜神社という神社の鳥居の前だった。戦前の社格は県社だが、鳥居をくぐって広い境内に入ってみると、いかにも出雲の神社らしく社殿そのたがひどく立派で、大きなしめなわの姿なども他地方の神社を見なれた目からするとただごとでなく、全体に出雲寂びている。 境内のすみに、林とまではゆかなくても樹木のまばらの一角があって、湿った黒い絹のような木下闇(このしたやみ)をつくっている。その淡い光の中に祭神もホコラも個性ありげな摂社や末社がならんでいて、その一つ一つに出雲の何事かがにおっている。 それらの中に「荒神社」という標柱の出た石のホコラがあった。荒神社(こうじんじゃ)ではなく荒神社(あらじんじゃ)。とふりがなが振られているのが、おもしろかった。 アラという呼称は日本の古い姓氏にも多い。安良という文字をあてたりする。太田亮博士は荒氏は「任那(みまな)帰化族なるべし」などと推量されているが、おそらく南朝鮮の伽耶(かや)地方を故郷とする氏族なのであろう。古代、朝鮮半島全体もしくは一部を、カラ(韓)、カヤ(伽耶)、アヤ(漢)、アラなどと呼んだ。とすればこの「荒神社」も、韓神をまつるホコラなのかもしれず、すくなくともそんな想像をしげきしてくれる。』
当神社の佇まいについては司馬遼太郎氏が訪問された、四十年前と変わりありません。
平成二十八年三月吉日 揖夜神社
『境内案内「意宇六社の一社 「揖夜神社」」』

揖夜神社 社内掲示

[交通情報]

<公共交通機関>

JR山陰本線 揖屋駅下車 徒歩10分(約1km)

<車>

松江市中心部から国道9号線経由で20分(約10km)

(駐車場)

大鳥居に向かって左手に無料駐車場(約10台程度)あり

[参拝記]

令和に変わって長い梅雨がやっと明けたと思ったら猛暑が続く日々。
松江市中心部で、あるIT系展示会があり、その出展準備の為に訪問したものの、この日の午後からしか出来ない。
しかも比較的コンパクトな松江市に展示会出展社中心にこの数日間に殺到しているため、航空便もホテルもパンパン状態。で、やむを得ず羽田空港を6:50に出発する猛烈に早い便に搭乗するハメになった。
なにせ、米子空港でバスに乗り継いで、松江駅についてもまだ9:00。他の便に分乗した連中は恐らく12:00過ぎまで来ない。はてさてどのように時間を潰そうか思案した結果、「そうだ!揖夜神社に行こう!」となった。
実は揖夜神社には10年ほど前に参拝しているのだが、その際に残念ながら御朱印を頂戴することができなかった。ずーっと心残りだったのだ。
取るものも取りあえずスマホでカーシェアの予約をし、すぐさま揖夜神社へと向かう。
国道9号線沿いはさすがに最近のチェーン店舗がたくさんあって典型的な都市の郊外っぽく、10年前とはかなり雰囲気は変わっているものの、境内やその周囲の雰囲気は全くと言って良いほど変わらない。
神社から徒歩3分くらいのロケーションには黄泉比良坂(よもつひらさか)という「この世とあの世の境」とされる場所がある。
かつて伊弉諾尊が出産の際に亡くなった伊弉冉尊にもう一度会いたいと黄泉の国に向かった際に、醜く腐ってしまった伊弉冉尊に追いかけられ、この地に大きな石を置いて「この世とあの世の境」としたとされる。
古事記には「伊賦夜坂(いふやさか)」として出てくるが、今の書き方なら「揖夜坂」だろう。
このように、かつての「国譲り」の神話から、この出雲地方にはこうした「あの世」「死の世界」を暗示させるような伝承が多いと言える。
揖夜神社自体は日本書紀には「言夜社」、出雲国風土記にも「伊布夜社」とされる古社である。
現在の地名「意宇郡」も「言夜」「伊布夜」からきているものだろう。
本殿の両脇には「韓国伊太氐神社」「三穂津姫神社」が祀られていて、実際に拝殿脇から両社と揖夜神社本殿裏をぐるっと一周通り抜けることができる。
『境内案内「意宇六社の一社 「揖夜神社」」』の記載で司馬遼太郎が言及しているように、現在の朝鮮半島の伽耶や任那といった地域と関係の深い神社である事が、境内社の名前からもうかがえる。
また、出雲国風土記には「伊布夜社」という名前が2つでてくる。
一つは神祇官に登録されている神社、もう一つは登録されていない神社として。
(『風土記(上)常陸国・出雲国・播磨国 現代語訳付き』中村 啓信監修・訳注 角川ソフィア文庫刊 参照)
どうやら全社が揖夜神社、後者が韓国伊太氐神社のようである。

揖夜神社 拝殿

揖夜神社摂社 韓国伊太氐神社

揖夜神社摂社 三穂津姫神社

朝比較的早く、しかも降ったりやんだりの非常に悪い天候の中、結構大勢の方が参拝しておられた。

出雲地方と言えば出雲大社には皆さん参拝するのだろうが、それに加えて黄泉比良坂等の名所もあり、この古社への参拝者も引きも切らないようだ。

揖夜神社 境内

この巨躯で大汗掻きながら参拝しているのを見て、神職の女性が「暑いのによくきなさった」と声を掛けて頂いた。当方の呈示した御朱印帳も、いろいろなところを回っているのですね、とお褒めいただき恐縮。
なにせ本社で御朱印頂戴するのに10年かかりましたので、遅くなりましたと心の中でお詫び申し上げる。
非常に出雲らしさのある古社であった。

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