延喜式の一行と、三つの社

新屋坐天照御魂神社(西福井)社号碑

新屋坐天照御魂神社(宿久庄)社号碑

新屋坐天照御魂神社(西河原)社号碑
延喜式神名帳、摂津国島下郡の条に、こう記される。
新屋坐天照御魂神社 三座(並名神大・月次新嘗・就中天照御魂一座預相嘗祭)
島下郡でただ一つの名神大社である。格式でいえば郡内の頂点に立つ。ところが現在、この一社の名を名乗る神社が、茨木市と箕面市にまたがって三つ存在する。
大字福井に一社。大字西河原に一社。そして箕面市大字宿久庄に一社。いずれも社号標に堂々と「新屋坐天照御魂神社」と刻む。
どれが延喜式のいう「その一社」なのか。これは、式内社を追う者が必ずぶつかる論社(ろんしゃ・ろんじゃ)の問題であり、しかもこの新屋坐天照御魂神社は、その最も鮮烈な実例の一つである。
私は令和八年八月一日、この三社を一日で巡った。何しろ今は私が30年以上前に神社参拝と御朱印拝受を始めたときにはなかった文明の利器!「カーシェア」がある。(これがなければ死んでいた・・・)炎天下の茨木・箕面をカーシェアでクーラーをガンガン効かせて、そしてコンビニで購入したアイスキャンディー(ガリガリ君ソーダ)を舐めながら、なぜ一つの社が三つに分かれたのかを、現地で確かめてきた。結論から言えば、その答えは由緒そのものの中に、驚くほど明快に書き込まれていた。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 社名 | 新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ) |
| 式内社名 | 新屋坐天照御魂神社 三座(名神大・月次・新嘗、就中一座 相嘗祭に預る) |
| 論社 | A 福井社(茨木市大字福井)/B 宿久庄社(箕面市大字宿久庄)/C 西河原社(茨木市大字西河原) |
| 旧社格 | Aは郷社(島下郡総社を称した)、B及びCは村社のようだ |
| 鎮座地 | 大阪府茨木市・箕面市 |
| 参拝日 | 令和八年八月一日 |
社名 —「ニヒヤ」と「ニキヤ」
社名の読みからして、すでに揺れている。
『式内社調査報告第5巻(京・畿内・和泉国・摂津国)』によれば、金剛寺本の延喜式は「ニヒヤ」と訓じ、吉田家本は「ニキヤ」と訓ずる。写本によって読みが違うのだ。一一〇〇年前の一行を、後世の人間が確定できずにいる証左である。
「新屋」という社名は、古代の郷名に由来する。和名抄の摂津国島下郡の項に「新野(にいの)」という郷が挙げられており、これが新屋にあたると考えられている。野と屋の字は違うが、いずれも古代の開拓地を意味する地名であるとのこと。
つまりこの社は、この地を切り拓いた人々が、その土地の神として祀ったところに始まる。名神大社という格式は、後から付いてきたものだ。
名神大社とは、「特に霊験あらたか」な神社のこと。あとで霊験あらたかであるとして選ばれたのだろう。
由緒 — 三つに分かれた理由

新屋坐天照御魂神社(西福井)拝殿

新屋坐天照御魂神社(宿久庄)工事中の現場 拝殿方向を望む

新屋坐天照御魂神社(西河原)拝殿
ここが、この記事の核心である。
三社の中心とされるのは、A・大字福井の社である。確かに3社とも歴史を感じさせる面持ちだが、Aの福井社は一つ抜き出ている感じがあった。()
その社伝は、三社がなぜ生まれたかを、一つの物語として語っている。
崇神天皇の御代、この地に神が降臨した。崇神天皇七年秋九月、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、新屋郷福井の丘山の榊に木綿(ゆう)を掛け、注連縄を引いて、はじめてこの神を祀ったという。この場所は、福井社の裏手にあって、「日降丘」という名前の聖地とされている。(裏手の登山道を200m位上がったところ)
無論登ってきた!と高らかに宣言したいところなのであるが、持病の変形性膝関節症が現在絶賛悪化中であるため、悩みに悩んで断念した。ごめんなさい・・・。(だから写真は登らずに撮ってしまいました。)

新屋坐天照御魂神社(西福井)参道
伊香色雄命といえば、物部氏の祖であり、大和神社の記事でも触れた、崇神朝の神まつり刷新に関わった人物である。ここでも同じ名が現れることに、私は静かな興奮を覚えた。畿内の国土神祭祀の再編という、同じ大きな流れの中に、この社もまた位置しているのだ。
よくぞこの炎天下のなかでこの神社参拝をした!(まあ、割と近くで前日に出張仕事があったというのが大きいのだが・・・)
物語は続く。景行天皇の御代、この神は天照皇大神として崇められた。そして神功皇后が三韓征伐に臨むとき、摂津国三島県の新屋川原において、身を潔める祓(はらえ)を行い、当社を祭った。
凱旋ののち、皇后は天照大神の幸御魂(さきみたま)を西の川上に、荒御魂(あらみたま)を東の川下に、それぞれ祀らせた——これが現在の上川原の社(B・宿久庄)と、西川原の社(C・西河原)である、と社伝は明かす。
つまり、こういうことだ。
中心(和魂)を福井に、幸御魂を川上に、荒御魂を川下に。一つの神の三つの側面が、三つの場所に分けて祀られた。 それが「同じ名の社が三つある」ことの、由緒における答えである。
三社は競合する別々の神社なのではなく、もともと一つの神を三つに分けて祀った、その分身なのだ——少なくとも、福井の社伝はそう主張している。
そういう意味では論社というよりも1セットの神社なのだろう。どれか一つの神社が正解なのではなく、あくまで3つで一つの名神大社。
祭神 — 三社を並べてみる
祭神を三社で比べると、この「一つの神の分身」という構造が、より立体的に見えてくる。
- A 福井社 — 天照皇御魂大神、天照國照天彦火明大神
- B 宿久庄社 — 天照皇大神、天照國照彦火明大神、天津彦瓊々杵大神
- C 西河原社 — 天照國照彦火明命、天児屋根命、建御名方命
三社に共通して現れるのが、天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)である。
この神は、伊勢の天照大神とは系譜を異にする。尾張氏・海部氏といった氏族が奉じた日神であり、饒速日命と同一視されることもある、いわば「もう一つの太陽神」である。畿内には「天照御魂」を冠する式内社が点在するが(鏡作坐天照御魂神社などがそれだ)、これらはこの物部・尾張系の日神信仰の痕跡と考えられている。
伊勢の天照大神があまりに有名なため、日本の太陽神といえば一柱と思われがちだが、実際には各地の氏族がそれぞれの日神を祀っていた。世界の多くの民族が太陽神を祭っていたように、新屋坐天照御魂神社は、日本のその古層をいまに伝える貴重な一社なのである。
由緒には、祭神の子孫である新屋連(にいやのむらじ)の崇敬も厚く、附近の古墳もその名も「新屋古墳群」として、6世紀後半から7世紀にかけてつくられた、と入口付近の掲示板に書かれている。多くの須恵器も発掘されているそうで、この歳にして「大学生」になって考古学を学ぶものとして非常に興奮するところであった。
この地を開いた氏族が、自らの祖神=日神を祀り、その墳墓もまた近くに残る。地名・氏族・古墳・祭神が一つに結びつく、式内社研究の理想的な構図がここにある。
神階と、承平天慶の乱
この社が朝廷からも重んじられたことは、神階の記録が示している。
続日本後紀の嘉祥二年(八四九)、日本三代実録の貞観元年(八五九)と、たびたび神階を授けられ、貞観元年九月には風雨を祈るための奉幣使が立てられている。
特に目を引くのは、園太暦の天慶三年(九四〇)の記事である。この年、正月に「東西の賊」を鎮めるため天下の名神の位を一階進めるにあたり、新屋天照御魂神は正四位上を授けられた。
「東西の賊」とは、東の平将門、西の藤原純友——承平天慶の乱である。国家を揺るがしたあの反乱の鎮圧にあたって、朝廷が霊験を頼んだ名神の一つに、この社が数えられていた。地方の一社ではなく、国家の危機に動員される社だったのだ。二十二社が国家の大事に奉幣を受けた社であったのと、同じ論理がここにも働いている(二十二社巡りとは)。
困ったときの神頼み、というのはまさにそのとおり。歴史的にそうして神頼みされてきたのだろう。困ったときだけ頼まれる神様も恐らく困ったことだろうに。
論社をどう考えるか
さて、では延喜式のいう「新屋坐天照御魂神社 三座」は、この三社のうちどれを指すのか。
調査報告は、A・大字福井の社を中心に据え、B・北河原(宿久庄)、C・西河原の三社に分かれている、と記す。福井社が本社格であることは、社伝の内容からも、伊香色雄命による創祀という位置づけからも、動かしがたい。
だが私は、先ほどここで述べたように「福井が正解、他は分社」と断定してしまうのは、やや性急だと考えている。
そもそも延喜式の「三座」という記載自体が、一つの社殿に三柱を祀るのか、三つの社に分かれるのかを明示していない。福井の社伝が語る「幸御魂を川上に、荒御魂を川下に」という三分割の物語は、逆に見れば、三社がすでに存在していた状況を、一つの由緒として後から統合的に説明したものとも読める。どちらが先かは、社伝だけからは決められない。
論社とは、こういうものである。文献は答えを一つに絞ってくれない。現地に立ち、地形を見て、川との関係を確かめ、複数の可能性を天秤にかける。その作業そのものが、式内社巡りの醍醐味だ(延喜式内社巡りとは)。
実際に三社を回って印象的だったのは、川との関係である。由緒が「川上」「川下」を語るとおり、西河原の社は安威川の北岸近くにあり、水との距離が近い。福井の社は丘の上に構える。この地形の違いは、地図や文献だけでは決して体感できないものだった。
これまで多くの神社を巡ってきて、こうした地形の変化、とりわけ川の近くに神社が祀られるケースは非常に多いのだ。
「ブラタモリ」という番組の素晴らしさについて時折このブログでも語ってきたが、高校の地学でどうしてこの地形についてもっと積極的に学ばなかったのか、をいつも思う。
神社と地形は切っても切り離せない関係なのだ。
並河誠所の社号石標 — 江戸の学者が「これが式内社だ」と刻んだ
並河誠所の社号石標 — 江戸の学者が「これが式内社だ」と刻んだ
三社を巡る中で、私が最も心を動かされたのが、西河原社の境内に立つ一本の社号石標である。拝殿の前、狛犬と並ぶように据えられたその石柱には、「新屋坐天照御魂神社一座」と正面に深く刻まれていた。
ここで、文献と現地のあいだにある小さなズレを正直に書いておきたい。調査報告は、式内社を顕彰する社号石標について、A・福井社の項に記している。徳川時代の元文元年(一七三六)十月、菅広房・久保武右衛門の協力を得て、並河誠所(なみかわせいしょ)が建立したもので、当国二十社にのみ建てられた由緒ある石標だ、と。ところが実際に私が社号石標を目にしたのは、福井社ではなく西河原社だった。この石柱が並河誠所建立のその一基にあたるのか、あるいは後世に別途建てられたものなのか、正面の銘からは建立年も建立者も読み取れず、断定はできない。それでも、式内社であることを堂々と刻んだ社号石標が、いまこの西河原社に立っているという事実は動かない。
ただ、工事中の宿久庄社はともかく、西福井社で探し当てられなかっただけかもしれない。
並河誠所は江戸中期の儒学者・地理学者で、荒廃して所在の分からなくなっていた式内社を一つひとつ考証し、「ここがその式内社である」と比定して回った人物である。その比定の証として、各地に社号石標を建てた。
これは、まさに論社問題そのものへの、江戸時代からの回答の試みである。私がいま現地で「どれが式内社か」と考えていることを、二九〇年前に並河誠所が同じように考え、石に刻んで残していた。式内社を追う営みが、決して現代人の趣味ではなく、幾世代にもわたる知的な連鎖の一部なのだと、その石標の前で実感した。
そもそも『式内社調査報告』という書籍自体が大変な労力とコストをかけ、現代の叡智を結集して取りまとめられているという点からみても、衰退してしまった神社と『延喜式神名帳』を付き合わせる大変な事業だったのだと思う。
個人で購入するのは大変なのと、そもそも全巻新品でそろえるのは不可能に近い気がするが、大きな図書館であれば置いてあると思うので、是非一巻、手に取ってみてほしい。(横浜市立図書館にはありました。)
石標建立にあたって、各村の庄屋から久保武右衛門に差し出された受書「元文元年丙辰十月式内神社社号石標造立受書一札之写」まで残されていると調査報告は伝える。式内社であることを、地域ぐるみで確認し、記録した痕跡である。
論社を主題とするこのブログにとって、社号石標は象徴的な存在だ。三社を訪ねる方は、西河原社でこの石柱を探してみてほしい。
中世から近世へ — 総社としての栄えと衰退
中世の新屋坐天照御魂神社は、鎌倉将軍家の治世から大永年間まで、島下郡一郡の総社を称した。守護職や目代・地頭の崇敬も厚かった。一郡の神々を代表する社だったのである。
しかし大永七年(一五二七)二月の兵乱を境に、総社の名義を失う。戦国の争乱が、この社の地位をも削っていった。
再建に関わったのが、中川氏である。調査報告は、天正十二年(一五八四)八月、茨木の領主・中川瀬兵衛尉清秀が当社の再建を成就し、その奥方の発願によって石垣・玉垣・土塀・神殿・拝殿が新造寄進された、と記す。
ただしここは、一つ注記しておきたい。中川清秀は前年の天正十一年(一五八三)、賤ヶ岳の戦いで戦死している。したがって天正十二年の再建成就は、実際には清秀の遺志を継いだ嗣子の代の事業と見るのが自然だろう。史料の記述をそのまま鵜呑みにせず、年代を突き合わせて読むと、こうした食い違いが見えてくる。中川家はのちに豊後岡藩主となり、天保年間の本社改築の際にも寄進を行っている。現在の福井社の建物は、この天保の改築によるものである。
C・西河原社についても、天正以前は神域が広大で近郷の総社として栄えたが、天正以後に社領を失って縮小した、と伝わる。三島随筆には、古の新屋大神宮の社地はのちに総持寺となり、社地は転々と移った、との記述もある。往時の広がりが偲ばれる。
参拝記 — 三社を一日で
令和八年八月一日、私はこの三社を新大阪から車で巡った。
猛暑だった。石段のある福井社と、参道の長い社を午前のうちに、と考えて動いたが、それでも日差しは容赦なかった。式内社巡りは体力勝負でもある。
A 福井社は、旧西国街道から北へ入った福井の集落にあり、丘の上に鎮座する。天保の改築による社殿は堂々としており、三社の中心格にふさわしい風格があった。並河誠所の社号石標も、ここで確かめた。
C 西河原社は、国道筋に面し、安威川の北岸近くにある。由緒に「川下」と語られる立地を、実際に水との距離で体感できたのが収穫だった。ここには御朱印の授与はない。
そしてB 宿久庄社。ここで想定外のことがあった。令和八年八月一日現在、宿久庄社は工事中で、境内に立ち入ることができなかった。 やむを得ず、鳥居の外からの参拝となった。
社殿に近づけなかったのは残念だが、これも参拝の記録である。工事が終われば、また訪ねればよい。むしろ「川上」に祀られた幸御魂の社が、いままさに手を入れられ、次の世代へ受け継がれようとしている、その途中に立ち会えたのだと思うことにした。鳥居の前で頭を下げ、工事の無事と、いつか改めて参拝できることを願って、この社を後にした。
三社を回り終えて感じたのは、「同じ名の三社」を地図の上で眺めるのと、実際に三つの場所に足を運ぶのとでは、まるで理解の質が違うということだった。丘の上の福井、水辺の西河原、工事中の宿久庄。三つの異なる風景が、一つの延喜式の一行に束ねられている。この体験こそが、論社を巡る意味なのだと思う。
各社へのアクセス
A 福井社(茨木市大字福井2485) JR「茨木駅」より北へ約4キロメートル。旧西国街道から北へ約1キロメートル入った福井の集落。茨木駅からバス便あり。
駐車スペースは境内にあり。(階段右脇の道を進み、境内の駐車スペースにいくと階段を上らずに上までいけます。体力があれば是非登っていただきたい。健常者なら特に問題ない段数だと思う。)
B 宿久庄社(箕面市大字宿久庄477) JR「茨木駅」より北西へ約4キロメートル。旧西国街道の茨木市から箕面市へ通じる街道の上川原。茨木・箕面いずれからもバス便あり。※令和八年八月時点で工事中、境内に立ち入れない場合があります。
駐車スペースはないように見えました。周囲は住宅地なので路上駐車はしないようにしましょう。
C 西河原社(茨木市大字西河原859) JR「茨木駅」より徒歩約2キロメートル。国道筋、安威川の北岸近く。三社の中では最も駅から近い。
駐車スペースはありません。周囲は交通量の多い道路なので駐車できません。歩いて5分くらいの所に大きな公共の公園・プールがあり、有料で駐車可能(30分100円だったと思います)です。
ただ、真夏でプールが開いていたための対応かもしれないので、一応申し添えます。
車で巡る場合、三社は数キロ圏内に収まっており、半日あれば回れます。ただし夏場は熱中症に十分な備えを。私は各社の移動ごとに車内で体を冷やし、ガリガリ君を食べ、水分を欠かさないようにして回りました。
御朱印
御朱印は福井社にて拝受できます。
西河原社には授与がおそらくありません。(祭典等の際に臨時であるかもしれませんが不明です。)
宿久庄社は今回工事中で確認できませんでした。
参拝を終えて
一つの延喜式の一行に、三つの社が応じている。しかもそれは互いに競合する別社ではなく、一柱の神の和魂・幸御魂・荒御魂を、中心と川上と川下に分けて祀ったものだ——少なくとも、福井の社伝はそう語る。
その説をそのまま信じるかどうかは、また別の問題である。三社が先にあって由緒が後から統合したのかもしれない。文献はそこを確定してくれない。だからこそ、並河誠所は石標を建て、私はいま現地を歩く。
論社とは、答えのない問いに、幾世代もの人間が向き合い続けてきた場所のことだ。新屋坐天照御魂神社は、その問いの最も豊かな実例として、これからも私の中に残り続けると思う。
宿久庄社の工事が終わったら、必ずまた訪ねたい。そのときこそ、三社すべての社殿の前に立って、この記事を書き直そうと思う。
参考文献
- 式内社研究会編『式内社調査報告』(摂津国・島下郡)皇學館大學出版部 — 「新屋坐天照御魂神社 三座」pp.339〜343(執筆:吉井良隆)
- 『延喜式』神名帳・臨時祭
- 『続日本後紀』『日本三代実録』
- 『園太暦』
- 『和名類聚抄』
- 各社社頭掲示・社号標銘
本記事は、令和八年八月一日の参拝記録および上記文献に基づいて執筆しました。宿久庄社は参拝時点で工事中のため、鳥居外からの参拝にとどまっています。境内の状況は今後変わる可能性があります。



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