[Translation] You can read your favorite language

渡来士族信太(しのだ)首の守り神(大阪府)聖神社

聖神社 本殿・拝殿 全国二宮三宮巡り
聖神社 本殿・拝殿
この記事は約5分で読めます。
聖神社 二の鳥居

聖神社 二の鳥居

聖神社 社名碑

聖神社 社名碑

基本情報

<鎮座(所在地)>
大阪府和泉市王子町919

社格等

延喜式:式内社(小社)
旧社格:府社
和泉国三宮

御祭神

主祭神

聖大神(ひじりのおおかみ)

縁起

聖神社は白鳳三年(六七四年)、天武天皇の勅願によって信太首(しのだのおびと)が創建したと伝えられ、以降延喜式内社、和泉国五社明神の三の宮に列し、「信太明神(しのだみょうじん)」の別称でも人々に親しまれている。祭神は素戔嗚尊の孫神「聖大神」を主祭神とし、天照大御神他四柱の神々を配祀している。かつての境内地は信太山丘陵の大半約百万坪を有していた。境内には国指定重要文化財である慶長九年(一六〇四年)再建の聖神社本殿をはじめ、末社の三神社本殿、滝神社本殿があり、末社平岡神社本殿は大阪府有形文化財に指定されている。

国指定重要文化財
聖神社本殿(昭和二十五年八月二十九日指定)
豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建し、屋根は桧皮葺、桁行三間、梁間三間の三間社入母屋造という神社建築様式で、桃山文化の粋を集めた極彩色の装飾が施された壮麗な社殿である。

末社三神社本殿(昭和五十二年一月二十八日指定)
三間社春日造とよばれる全国的も珍しい建築様式で、屋根は桧皮武器、正面三間、身舎側二間の前面に一間通りの庇を設け、極彩色が施されている。元は東南部の神護寺「奥の院」に鎮座していたが、明治六年に現在地へ遷座した。

末社瀧神社本殿(昭和五十二年一月二十八日指定)
三神社の北側に隣接、鎮座する社殿で、屋根は桧皮葺、正面一間、身舎側面一間の一間舎春日造である。
聖神社境内案内板 平成19年3月31日 和泉市教育委員会設置 より引用

交通情報

公共交通機関

JR阪和線 北信太駅 徒歩約20分(1.4km程度)

境泉北道路 菱木出口から西浦橋、取石6丁目南交差点経由 約5km

駐車場

神社参道が二方面(鳥居が二カ所)あり、神社の南東方向の参道脇に駐車場の表示がある。
また、神社の西側の参道も社務所の脇の車止め(この先関係者以外進入禁止の表記)まで進入はでき、数台程度の車は止められる模様。(但し、正規の駐車場ではないかもしれないのd注意。)

参拝記

出張で2週間ほど奈良県に滞在し、春の三連休の初日に当社に参拝。
当社の鎮座するのは小高い丘陵地帯のようで、JR阪和線の北信太駅の線路からだらだらと坂を登る。
駅から少し上がったところに一の鳥居があり、そこからさらに登っていく。
道が二股に分かれ、私のカーシェアのカーナビは右を指示したが、結果的には左が良いようだ。というのも、どちらも右を行けば拝殿に向かって左手の社務所の脇の参道に、左を行けば拝殿正面の参道に出るようになっている。
ただ、明確に駐車場と書かれているのは拝殿正面である。実際には社務所の脇の参道はかなり広く、車止めがあるのでその手前まで乗り入れても問題なさそうだが。

社殿は非常にピカピカで、最近改修工事を終えたのだと思われる。
境内に和泉市教育委員会が設置した由緒書によれば、もともとこの社殿の境内地は、信太丘陵全体に広がっていたのだという。
当社はそもそも和泉国三ノ宮、和泉国五社明神の一つとして崇敬を集めていたとのことである。

聖神社 本殿・拝殿

聖神社 本殿・拝殿

由緒書

由緒書

この地域の地名である「信太」というのは、「信太首(しのだおびと)」という氏族からきており、前回和泉国一ノ宮の大鳥大社参拝の項でも記述したが、地元の有力士族を祀った神社が、その地域を代表する神社として勢力を持つというケースは非常に多い。
平安時代初期の815年に、湯治の嵯峨天皇が編纂させた『新撰姓氏禄』という古代の士族の集めた名鑑がある。
この中には、「皇別」「神別」「諸蕃」と出自により分類し、その祖先や氏名の由来や家系などを記している。
信太首もこの中に登場し、「和泉国諸蕃(百済) 信太首 百済国人百千之後也」と渡来系(百済、現在の朝鮮半島)の士族であると記載されている。
諸説あるようで、例えばwikipediaの当社の項では、「神武天皇東征の際に瓊々杵尊を祀ったとする伝承と、白鳳3年(675年)8月15日に天武天皇の勅願により渡来氏族の信太首(しのだのおびと)が聖大神を祀ったとする伝承の二説がある。」(wikipediaより抜粋)としており、当社の縁起が必ずしも明確ではないことを匂わせている。
最新は聖神で素戔嗚尊の孫神とされる。『諸国神社 一宮・二宮・三宮』山川出版社刊において著者の 渋谷 申博氏は「ひじり」は「日知り」のことで、農業の神様ではないかと推測している。

本殿は、豊臣秀頼の代に片桐且元を奉行として再建させたとあったり、織田信長が朱印地の寄進をした、といったこともあるようで、武士にとっても崇敬の対象になっていたのであろう。

聖神社摂社 平岡神社

摂社 平岡神社

末広大神

末広大神

聖不動明王

聖不動明王

聖神社摂社 厳島神社

摂社 厳島神社

聖権現大神の碑

聖権現大神の碑

境内と社殿は以前のように信太丘陵全体、というほどの広さではないものの、高台から開発が進む住宅地を見下ろすように堂々としている。

残念ながら摂社の平岡神社(大阪なので枚岡神社?とも思うが)は工事中であった。
境内の片隅に少し大きな東屋があり、春先の少しぽかぽかと暖かい風を受けながら、きれいになった社殿が誇らしげであった。

社務所にメモがはってあり、本日の受け付け終了で、御朱印は書き置きのみの対応とのことで頂戴できなかった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました