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高鴨神社(上鴨)(奈良県御所市)— 「今、迦毛の大御神」と呼ばれた神

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十八年越しの、宿題

 

高鴨神社 大鳥居

正直に打ち明けると、この記事はずっと書けずにいた。

私が高鴨神社に初めて参拝したのは平成二十年、二〇〇八年の六月のことだ。全国の鴨社の総本宮、名神大社。式内社を追う者にとって外せない一社であり、そのときも確かにこの境内に立った。
変形性膝関節症で歩くのが非常におっくうな今とは違い、当時はまだ若い!
高鴨神社から高天彦神社への坂道、というか山道を、結構きつかったけれども登り切り、その後葛城一言主神社まで歩いたのだ。その時は・・・。
ところが、当時の写真がほとんど残っていなかった。写真を撮影した記憶はあるのだが、整理されていなかったのか、あるいはデジタル化できていなかったのか。
私のブログには一つ、固く守っている原則がある——参拝記録と写真の揃った社しか記事にしない。高鴨神社は、格式においては最上級でありながら、この原則ゆえに長らく「書けない社」であり続けた。(御朱印がいただけないケースは非常に多いので、ない場合でも記事を書くことはある。)

だから令和八年八月、猛暑の葛城を再訪したとき、私にとって高鴨神社の撮影は、この夏いちばんの目的だった。社殿に立ち、参道を歩き、神木を見上げ、ようやく十八年越しの宿題を果たした。

その一枚一枚を前に、いま筆を執っている。


基本情報

項目 内容
社名 高鴨神社(たかかもじんじゃ)
式内社名 高鴨阿治須岐託彦根命神社 四座(名神大・月次・相嘗・新嘗)
鎮座地 奈良県御所市鴨神1110
主祭神 阿治須岐託彦根命(あぢすきたかひこねのみこと)
旧社格 名神大社
通称 佐味宮・捨篠社・神通寺の宮・神光山高鴨大明神
参拝日 平成二十年六月/令和八年八月八日(再訪)

社名 — 「阿治須岐託彦根命」という長い名

高鴨神社 境内池

延喜式神名帳には、この社が「高鴨阿治須岐託彦根命神社 四座」として登載されている。名神大社であり、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預かる、最高格の一社である。

主祭神の阿治須岐託彦根命(あぢすきたかひこねのみこと)は、古事記では阿遅鉏高日子根神と書かれる神だ。大国主神と、宗像の奥津宮に坐す多紀理毘売命との間に生まれた御子である。

祭神については異説が多い。調査報告は、阿治須岐託彦根命・阿治須岐速雄命・夷守比売命・八重事代主命の四座を挙げる一方、別の史料では味鉏高彦根神・下照姫命・天稚彦命・田心姫命とするものもあると記す。『特選神名牒』は阿治須岐高彦根命と多紀理比売命を祭神とし、下照比売神・天稚彦神の二座を祭るという説については、書紀に味鉏高彦根神と天稚彦が親友であったとある記事からの推測にすぎず疑わしいとして退けている。

四座という記載の内実が、すでに一筋縄ではいかない。式内社をより深く見ていくとは、こういう不確かさと付き合うことでもあるのだろう。

これだけ社格が高く、現在でも有名な神社にしてこの状況なのだ。むずかしい・・・・。


「今、迦毛の大御神」— この一語の重み

だが、祭神の細部以上に私の胸を打つのは、古事記のある一節である。

阿遅鉏高日子根神を語り終えたあと、古事記はこう記す。

此の阿遅鉏高日子根神は、今迦毛大御神と謂ふぞ

この阿遅鉏高日子根神こそ、今でいう迦毛大御神(かものおおみかみ)である、と。

この「大御神(おおみかみ)」という尊称に、しばらく手が止まった。日本の八百万の神のなかで、「大御神」と呼ばれる神は、ごく僅かしかいない。「天照大御神」「伊邪那岐大御神」そして、この迦毛大御神である。皇祖神と並ぶこの尊称が、葛城の一地方の神に与えられている。

これは尋常なことではない。高鴨神社が「全国の鴨社の総本宮」と称されるのは、単なる後世の権威づけではない。記紀成立の段階で、この神はすでに最上級の格をもって遇されていた。賀茂という氏族が、どれほど古く、どれほど強大であったか——「大御神」の三文字が、それを静かに証している。

出雲国造神賀詞にも、大国主の子・阿遅須伎高孫根命の御魂を「葛木の鴨の神奈備に坐せ」と祀ったことが謳われる。葛城の鴨は、出雲の神話世界とも地続きなのである。


神が流された — 土佐への配流と復祠

高鴨神社 境内鳥居

高鴨神社には、日本の神社史でもきわめて珍しい伝承がある。神が、天皇の怒りに触れて流罪になったという話である。

『神々の流竄』という梅原猛先生の執筆された書籍がある。これは出雲の神のことを書いた本であるが、高鴨の神の流罪がこの書籍のタイトルとぴったり合いそうだ。

続日本紀の天平宝字八年(七六四)十一月の条に、高鴨神を土佐から大和国葛上郡へ迎えて復祠したことが記されている。その経緯を、賀茂朝臣田守がこう奏上している。

昔、雄略天皇が葛城山で狩りをしたとき、一人の老夫に出会った。天皇が獲物を争うたびに競い合ったこの老夫に、天皇は怒って、その者を土佐国へ流した。実はこの老夫こそ、賀茂氏の祖神が姿を変えたものだった——。

これは、あの有名な雄略天皇と一言主神の対決伝承と重なる話である。古事記・日本書紀では、葛城山で雄略天皇の前に現れた一言主神は、天皇と対等に振る舞う強大な神として描かれる。その神が、別の伝えでは天皇の怒りを買って土佐へ流された、というのだ。

土左国風土記逸文にも、土佐の高賀茂の大社の神を一言主尊とし、一説には味鉏高彦根尊であるとする記述が見える。土佐に「高賀茂」の社があり、その神が葛城の賀茂の神と同一視されている。神が流された、という物語の痕跡が、遠く土佐にまで残っているのである。

そして天平宝字八年、賀茂朝臣田守が朝廷に願い出て、この神を土佐から大和へ迎え戻し、本の処に祀らせた。神の帰還である。

私はこの伝承に、賀茂氏の栄枯を読む。かつて天皇と対等に振る舞えたほど強大だった葛城の神が、一度は都から遠い土佐へ退けられ、やがて呼び戻される。神の運命は、それを祀る氏族の権勢の浮き沈みと、どこかで重なっている。


神階と神戸 — 数字が語る格

高鴨神社が朝廷からどれほど重んじられたかは、記録が示している。

神階は、貞観元年(八五九)正月に大和国従二位勲八等から正三位を授けられている。

神戸(かんべ、神社に付属する封戸)も広大だった。新抄格勅符抄によれば、高鴨神の神戸は五十三戸にのぼり、その内訳は大和三戸・伊予卅戸・土佐廿戸である。ここでも土佐が現れることに注目したい。土佐に二十戸もの神戸を持っていたことが、あの配流と復祠の伝承の背景にあるのだろう。伊予にも三十戸——賀茂氏の信仰が、瀬戸内から四国にかけて広がっていたことがうかがえる。

出雲国風土記の意宇郡の章には、「賀茂の神戸」の由来として、大神の御子である阿遅須枳高日子命が葛城の賀茂の社に坐すゆえに、この神戸を「鴨」と呼び、のちに字を「賀茂」に改めた、とある。「鴨」という地名そのものが、この神に由来する。


室町の本殿 — 天文十二年の遺構

今回の再訪で、私がとりわけ丁寧に見たかったのは本殿である。

後述するが、高鴨神社の本殿については写真撮影が禁止されている。
私が昔、当神社に参拝した際の写真が見当たらない、と前述したが、もしかしたらこのこともあって敢えて記録しなかったのかもしれない。思い出せないのだが・・・
このブログ記事内に社殿の写真が全くないのはそれが原因である。ただ、境内の雰囲気だけでも感じ取ってほしく、社殿以外の写真を貼らせて頂いている。

高鴨神社 境内参道

本殿は三間社流造、檜皮葺。国の重要文化財に指定されている。桁行一七・二尺、梁行九・二尺。中央の間を広くとって唐破風を入れた、堂々たる社殿だ。

「明細帳」には元亀二年(一五七一)四月の遷座とあるが、本殿左端の戸口楣の背面東端に「大工……天文十二年三月十三日」の墨書銘が見つかっている。ここから、実際の再建は天文十二年(一五四三)とみられる。奈良県下に残る室町時代の神社建築として、きわめて貴重な遺構である。

見どころは彫刻だ。斗栱は三斗実肘木つき、中備には蟇股(かえるまた)を入れる。中央間に唐破風をつけたため、両脇間の蟇股は背が高くなり、その中に丸彫りの彫刻を入れているので、非常に引き立って見える。彫刻のモチーフは、向かって右の間が蓮、左が椿、向拝中央が龍。これらには極彩色が施され、その他は丹塗りである。彫刻など全然知識がない私だが、片手に事前に調べたガイドを読みながら見るべき所をチェックしていく。
やはり智は力なりで、漫然とみていてもよく分からないが、ガイドブック的なものを見ながらだと理解も深まるものだな、とカンニングペーパーを置きながら試験を受ける学生の気分。

正面の蟇股と、妻の花肘木。この二つが社殿を派手に、生き生きと見せている、と調査報告は評する。写真を見返すと、その評のとおり、装飾の密度が尋常でない。撮影しながら、これが四百八十年前の職人の手になるものかと、しばし見入った。

境内には東神社の本殿もあり、こちらは県指定文化財。三間社流造の檜皮葺で、寛文頃の建築、古風な風格を保っている。
境内の池を右手に見ながら5分ほどの散策でこうした文化財に出会える。


神紋「菊水」と、神仏習合の名残

高鴨神社の神紋は「菊水」である。

境内には、神仏習合時代の遺物が数多く残る。石燈籠には万治三年(一六六〇)、宝永五年(一七〇八)、延享二年(一七四五)といった江戸期の紀年銘が刻まれ、佐味郷の氏子たちが寄進した歴史が読み取れる。宝永五年の石燈籠一対の台座には、邪鬼が彫刻されている。

かつて社の東方には神通寺という神宮寺があったそうだ。今は廃絶しているが、新抄格勅符抄によれば宝亀六年(七七五)に上野国に封戸二十戸を充てられた記録が残る。この神通寺は桜の名所で、サトザクラやアカメヤマザクラは俗に「神通寺桜」「佐味桜」と称された。神社前には、延宝七年(一六七九)在銘の神光山菩提金剛寺の梵鐘があり、時の鐘として今なお利用されているという。

賀茂氏の古社が、中世を通じて神と仏の混淆した信仰の場であったことを、これらの遺物が物語っている。


参拝記 — 写真取得ミッション

令和八年八月八日、私は葛城の名神大社を巡る一日の、その筆頭としてこの社を訪れた。目的は明確だった。十八年前に撮り逃した写真を、今度こそ確実に持ち帰る。

ここで、参拝される方に一つ実用的な注意を記しておきたい。高鴨神社では、社殿へ向けての写真撮影は禁止である。境内の掲示によれば、神木や池は撮影してよいが、社殿の内部は不可となっている。写真を目的に訪れる場合は、参道・社叢・鳥居・神木・池を主役に構図を考えるしかないと思う。
まあ、全くと言っていいほど写真撮影に造詣はない私が言っても仕方ないのだが。

境内には、古典園芸として日本さくら草の栽培が行われている。約五二〇種というから相当な規模で、開花期に訪れれば、また違った表情に出会えるだろう。境内地は四九六四・二六五坪。鬱蒼とした社叢に包まれ、いかにも「総本宮」の風格がある。
さくら草については高鴨神社でなぜ栽培しているかの詳しい案内が社務所の前にある。

高鴨神社 境内案内

御朱印にまつわる、ささやかな一幕もあった。のんびり境内を散策していたら、ちょうど正午になってしまった。社務所へ行くと、この時間帯(十二時から十三時)は書き置きのみだという。書き置きをいただくか、一時まで待って書き入れをお願いするか。少し悩んだ末、私は先に近くの高天彦神社を参拝し、戻ってくることにした。このあたりがカーシェアの良いところ。歩くと私の足では1時間以上かかるだろうが車なら10分とかからない。高鴨と高天彦の御朱印は、いずれもこの高鴨神社の社務所で授与される。戻ってくるとちょうど時間もよく、結果として書き入れの御朱印をいただけた。御朱印は五百円。高鴨神社ならではの、白いスマートな意匠の御朱印帳(大小二種)も授与されていて、買っておけばよかったと、これは今も少し悔やんでいる。私の次に御朱印をお願いされていた方は、大と小の御朱印帳を2つとも買い求めておられた。お目が高い。
次に訪れる理由が、また一つ増えた。


アクセス

  • 近鉄・JR「御所駅」から奈良交通バス五條行き「風の森」下車、西へ約1.1キロメートル
  • 奈良県御所市鴨神1110 南面鎮座
  • 専用駐車場と葛城の道歴史文化館との共用駐車場があり

社務所前の駐車場を利用できる。葛城の道の一部にあたり、周辺には高天彦神社、葛木御歳神社、鴨都波神社といった名神大社が点在する。一日でこれらを巡れば、賀茂氏が葛城に展開した信仰の全体像が見えてくる。

道は全体に細く、対向に注意が必要な区間がある。カーシェアやレンタカーで巡る場合は、ゆとりを持った運転を勧めたい。


参拝を終えて

十八年かかった。

格式においては最上級——「大御神」と呼ばれ、全国鴨社の総本宮とされ、名神大社に列し、神が土佐から呼び戻された物語まで持つ。それほどの社でありながら、私はこの一社を、写真がないというただ一点のために、長く記事にできずにいた。

だがいま思えば、この十八年は無駄ではなかった。二〇〇八年の私は、高鴨神社の何を見ていただろう。「大御神」の重みも、土佐配流の伝承も、天文十二年の墨書銘も、当時の私はおそらく素通りしていた。式内社を追い、論社を考え、一次資料と現地を突き合わせる——そうやって重ねてきた歳月の果てに、ようやくこの社の前に、正しく立てたのだと思う。

それもこれも数年前に『式内社調査報告』という大著に出会ったことだ。少なくとも50年近く前の時点でのこれらの神社の姿が克明に記されている。

阿遅鉏高日子根神。今、迦毛の大御神。その名を胸に、私は写真をGoogle Photosにアップロードして整理し、一枚ずつ確かめながら、この記事を書き終えた。

賀茂氏が葛城に残した名神大社は、まだ続く。次は中鴨・下鴨——御歳神社と鴨都波神社を訪ねた記録を書こうと思う。


参考文献

  • 式内社研究会編『式内社調査報告』(大和国・葛上郡)皇學館大學出版部 — 「高鴨阿治須岐託彦根命神社 四座」pp.273〜278(執筆:池田末則)
  • 『古事記』神武段
  • 『日本書紀』
  • 『続日本紀』天平宝字八年十一月条
  • 『新抄格勅符抄』
  • 『日本三代実録』
  • 『出雲国風土記』意宇郡/出雲国造神賀詞
  • 『土左国風土記』逸文(『釈日本紀』所収)
  • 『特選神名牒』『大神分身類社鈔』
  • 『御所市史』建築編
  • 高鴨神社社頭掲示・授与リーフレット

本記事は、平成二十年および令和八年八月八日の参拝記録、上記文献に基づいて執筆しました。社殿内は撮影禁止のため、写真は境内・社殿外観・社叢等に限られます。境内の状況や授与の詳細は参拝時点のものです。

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