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大和神社(奈良県天理市)— 伊勢に次ぐ神戸を持ちながら、なぜ忘れられたのか

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大和神社 御朱印

田圃の中の、鬱蒼とした森

奈良県天理市新泉町。山辺の道を歩く人の多くは、大神神社と石上神宮を目指して東の山裾を南へ北へと辿っていく。その西側、平地に降りたところに、周囲から不自然に盛り上がった小さな丘がある。標高にして六十八メートルほど。田圃の中に突き出したその丘は、鬱蒼とした樹木に覆われ、遠くから眺めると巨大な古墳のように見える。

私は若干手を抜いて、レンタサイクルを利用しての参拝だったが・・・。

そこに鎮座するのが、大和神社(おおやまとじんじゃ)である。

延喜式神名帳に「大和坐大国魂神社 三座」と記され、大和国山辺郡の筆頭に掲げられた名神大社。読みは「オホヤマトノ」。異訓はない。江戸期には大和大明神とも呼ばれた。

私がこの社を訪れたのは平成十七年五月六日のことだった。この日は朝から石上神宮を参拝し、大和神社、穴師坐兵主神社、そして大神神社へと、山辺の道沿いの古社を一日で巡っている。私は余り足が速いほうではなく、ゆっくり神社を参拝させていただくためにレンタサイクルだったのだが、石上神宮の持つ重厚さ、大神神社の三輪山を背負った圧倒的な存在感——それらに挟まれるようにして、大和神社は静かに、本当に静かにそこにあった。

正直に言えば、この日の参拝で御朱印を頂戴できた神社の中で、大和神社は最も「地味」だった。参拝者の姿もまばらで、拝殿の前に立っても、観光地としての賑わいはまるでない。

しかも、参拝途中からちょっとした夕立に遭ってしまい、写真にもその雨が映り込んでいる。
確か傘を差しながら写真を撮影したので、そもそも写真のド素人なのにも関わらず、ちょっと構図が曲がって映っており、ちょっとお恥ずかしい・・・・。

だが、この社の来歴を調べれば調べるほど、その静けさが異様なものに思えてくる。かつてこの神社は、伊勢神宮に次ぐ規模の神戸を全国に有していた、というのである。


基本情報

項目 内容
社名 大和神社(おおやまとじんじゃ)
式内社名 大和坐大国魂神社 三座(名神大・月次・相嘗・新嘗)
鎮座地 奈良県天理市新泉町星山306
主祭神 日本大国魂大神(大国御魂神)
相殿 八千戈大神(左)・御歳大神(右)
旧社格等 官幣大社・二十二社(中七社)
神階 嘉祥三年(八五〇)従二位/貞観元年(八五九)従一位/寛平九年(八九七)正一位
参拝日 平成十七年五月六日

崇神天皇の恐怖——同殿共床の解消

大和神社の由緒を語るには、日本書紀の崇神天皇紀に遡らなければならない。これは日本の神まつりの歴史における、決定的な転換点の記事である。

崇神天皇の御代、疫病が流行して国民の大半が死に絶えるという未曾有の危機が訪れた。天皇はその原因を、宮中に天照大神と倭大国魂神という二柱の強大な神を同床共殿で祀っていることに求める。神威があまりに強く、共に住まうことに堪えられなかったのだ。

そこで崇神天皇六年、天照大神を豊鍬入姫命に託して笠縫邑に、そして倭大国魂神を渟名城入姫命に託して市磯邑(いちしのむら)に、それぞれ宮中の外へ遷し祀ることとした。

ここで重要なのは、天照大神と倭大国魂神が「対等な二柱」として扱われている点である。後の伊勢神宮へと繋がる皇祖神の遷座と、大和神社の起源とは、まったく同じ一つの事件の、表と裏なのだ。

ところが、倭大国魂神の祭祀は順調には進まなかった。書紀は渟名城入姫について、髪が抜け落ち、身体が痩せ細って、祀ることができなかったと記す。神を祀るにも適格者がいる、という思想がここに露わになっている。

崇神天皇七年八月、穂積臣の遠祖・大水口宿禰らが同じ夢を見て、市磯長尾市(いちしのながおち)を祭主とすべきことを奏上する。同年十二月、伊香色雄に命じて物部八十手に祭具を作らせ、大倭直の祖である長尾市を倭大国魂神を祀る主として、神地・神戸を定めた。

すると疫病はようやく止み、国内は静まり、五穀は実って民は豊かになった——書紀はそう結んでいる。

つまり大和神社とは、疫病という国家的危機を鎮めるために創始された、律令国家以前の国土神祭祀の中枢だったのである。


「大地主神」の宣言——垂仁紀の一書

大和神社 由緒書

さらに垂仁天皇二十七年の記事には、倭大国魂神が大水口宿禰に憑いて、こう告げたとある。

太初之時、期日、天照大神悉治高天原、皇御孫尊専治葦原中国之八十魂神、我親治大地官者

天地の初めにあたって、天照大神はことごとく高天原を治め、皇御孫尊は葦原中国の八十魂神を専ら治め、我は自ら大地を治める者である——と。

天照大神が高天原を、皇孫が地上の神々を、そして倭大国魂神が大地そのものを治める。この三分割の宣言によって、「大地主神(おおとこぬしのかみ)」という号が起こった、と伝えられる。

大和という国土そのものの霊格。それが大和神社の神である。


史料をどう読むか——『大倭神社註進状』の問題

ここで、一次資料の扱いについて注記しておきたい。

大和神社の由緒を詳しく伝える史料に『大倭神社註進状』がある。仁安二年(一一六七)の奥書を持つとされる文書で、上に述べた孝昭天皇元年の並祭から崇神・垂仁朝の鎮祭までを、記紀よりも詳細に記している。

しかしこの註進状には、記紀に対応記事のない独自の記述が含まれる。たとえば孝昭天皇元年に天照大神と倭大国魂神を大殿の内に並祭したという条は、崇神六年紀の「先是」を孝昭元年の出来事として具体化したもので、書紀には存在しない。

これを大倭氏に伝わった独自伝承と見るか、後世の造作と見るか。滝川政次郎は前者の立場を取り、一方で西田長男はこの文書自体を江戸期の偽作と見ている。『式内社調査報告』の執筆者・石崎正雄氏も、なお議論の余地があるとして判断を保留している。

また、紀の内部でも問題がある。垂仁二十五年の一書の説と、崇神紀・垂仁紀にわたる本文の説とを総合して一連の物語として読む従来の解釈には無理があり、一書の説は本文の説と区別して考えるべきだ、という指摘は重要である。

私はこうした場合、断定を避けることにしている。神社の由緒を紹介するとき、伝承をそのまま史実として書いてしまう例は少なくないが、それでは何も明らかにならない。大和神社について確実に言えるのは、記紀成立の段階ですでに「倭大国魂神を祀る特別な社」という認識が存在していたこと、そしてそれが後述する律令期の実態によって裏付けられること、この二点である。


伊勢神宮に次ぐ神戸——数字が語る格式

大和神社が単なる伝承上の古社ではないことは、平安期の記録が証明している。

朝廷からの奉幣は、持統天皇六年の四所奉幣を初見として継続的に行われた。神階は嘉祥三年(八五〇)に従二位、貞観元年(八五九)に従一位、寛平九年(八九七)に正一位と昇り続けている。

決定的なのは神戸(かんべ、神社に付属する封戸)の数字である。天平二年の大倭国大税帳によれば、稲・租は合わせて一〇四一束。さらに大同元年(八〇六)の神事諸家封戸によれば、大和・尾張・常陸・安芸・出雲・武蔵という六か国にまたがって、実に三二七戸の神戸を有していた。

これは伊勢神宮に次ぐ規模である。

もう一つ、延喜式にはこんな規定がある。丹生川上社へ奉幣する際には、大和神社の神主が勅使に随行して社へ赴き、これを奉れ、と。つまり丹生川上社は大和神社の別宮として扱われていた。祈雨・止雨の国家祭祀を担ったあの丹生川上社が、である。

境内末社の高龗神社が古くは雨師神社と呼ばれていたことも、この関係を裏づけている。


そして忘れられた——春日・興福寺による侵蝕

これほどの社が、なぜ今日ほとんど知られていないのか。

その答えは、平安中期以降の春日社・興福寺勢力の伸長にある。

延久元年(一〇六九)の「延久雑役免帳」を見ると、神社所在地である新泉荘のうち、春日神戸田が四反、大和神田が二反と記されている。すでにこの時点で、大和神社の足元に春日社の権益が食い込んでいるのだ。

その後の推移はさらに厳しい。現在の大和郷において、春日神戸田が三町三反余に達するのに対し、大和神田はわずか八反二四〇歩にすぎない。四倍近い差である。

追い討ちをかけたのが火災だった。永久六年(一一一八)二月、火災により神殿も御正体もすべて焼失する。ただし、その後も朝廷からの奉幣が度々行われているのは、神威がまだ衰えていなかった証と見るべきだろう。

決定的だったのは天正の兵火である。神領の反別書類等がすべて焼失し、徳川期には無縁の状態に陥った。宝物・文書・記録の類は、地理的に戦禍を受けやすい位置にあったこともあり、現在すべて失われている。江戸期以後の記録類まで亡失しているのは、管理上の問題もあったのだろうと『調査報告』は率直に記す。

それでも江戸期の記録は、この社をこう描写している。

境内東西四町、南北三町、樹木繁茂而如深山

樹木が繁茂して深山のごとし。神領を失い、記録を失い、それでもなお、森だけは残っていた。私が訪れたときに見た、あの田圃の中の鬱蒼とした丘である。

明治四年、大和神社は官幣大社に列せられる。国家による格付けの回復ではあったが、失われた千年は戻らなかった。


祭神と、それを祀った氏族

現在の祭神は三座。中央に大国御魂神(日本大国魂大神)、左に八千戈神、右に御歳神を配する。これは『大倭神社註進状』の説に拠るものである。

社伝によれば、大国魂神は大己貴神の荒魂で、また大地主神とも称し、八尺瓊を神体とする。八千戈神は国を平定した時の号であり広矛を神体とし、御歳神は禾穀守護の神で八握穂稲を神体とする。

なお三座の内訳については異説が多い。旧事本紀に基づいて大国魂神・大歳神・須沼比神とする説、中殿を大倭大明神・左殿を三輪大明神・右殿を天照大神とする説(元要記)など、複数の伝承が並立している。文政四年(一八二一)の修理願書には「須治比女神」とあり、社説の中でも混乱が生じていた形跡がある。

より興味深いのは、この社を祀った氏族である。

鎮祭当初の祭主は大倭直の祖・長尾市。新撰姓氏録によれば、大倭直氏は椎根津彦(しいねつひこ)を祖とし、大和国造に任じられ、後に宿禰姓を賜っている。

この椎根津彦という人物が鍵になる。彼は珍彦(うずひこ)・神知津彦の別名を持ち、神武東征において速吸門で天皇を導いた海人である。その本貫地は豊予海峡付近、あるいは明石付近と考えられている。

大和という内陸の国土神を祀ったのが、海人系の氏族だった。

『調査報告』は、大国魂神が航海や海外使節と関係が深い理由をここに求めている。大和政権の国土神祭祀が、瀬戸内の航路を掌握した海の民によって担われていた——これは大和神社を考える上で、最も示唆に富む論点だと私は思う。

奈良時代を通じて大倭直氏が祭祀を掌り、平安期には大和宿禰吉継・館子、永胤・継子、神主大和人成といった名が史料に見える。しかし永久六年の火災以後は次第に衰微し、依るべき史料がなくなる。永禄年間(一五五八〜七〇)に在原広次が祠官となって市磯氏を称し、近世以降は市磯氏が世襲神官として明治に及んだ。

崇神朝の祭主・市磯長尾市の「市磯」を名乗ったところに、失われた記憶を繋ぎとめようとする意志を感じる。


鎮座地の謎——本当にここだったのか

大和神社を訪れて感じる違和感がある。大神神社は三輪山を、石上神宮は布留山を背にして、いずれも山裾の高みに鎮座する。ところが大和神社だけは、平地に降りているのだ。

このため、旧鎮座地は現在地より東方にあり、後に遷座したのではないかとする説が古くから唱えられてきた。その候補地は、垂仁紀に見える穴磯邑・大市長岡岬をどこに比定するかによって分かれる。

主なものを挙げれば、崇神朝には穴師兵主神社の地に祀られ垂仁朝に現在地へ遷ったとする説、大市長岡岬を現在の長岳寺のある上長岡の地とする説、狭井神社や檜原神社の西方突出部とする説、巻向山尾崎とする説などがある。

さらに、もと中山町の高槻山に鎮座していたが、奉幣使の便宜のために星山の現在地へ遷ったという伝承もある。永久六年の焼亡の際には一時この高槻山へ移座し、新泉村の篠田某が高槻山から御神体を背負って星山に鎮祭したという。その際に着けていた蓑笠を、備前村の牛頭天王社へ奉納したとまで伝わる。高槻山の頂上は全長一一〇メートルの前方後円墳で、手白香皇后陵の候補地でもある。

明治七年には権宮司の浜島正誡が、長岳寺を旧社地として復帰させようと試みたが、長岳寺の反対によって中止となったとのこと。

山宮から里宮へという一般的な変遷の一例なのか、それとも当初から現在地に創祀されたのか。『調査報告』はこれを「なお決しがたい諸問題を含んでいる」と結ぶ。


大和古墳群の西端に立つ

もう一つ、見過ごせない事実がある。

大和神社の周辺は、いわゆる大和古墳群の分布域である。一〇〇メートルを超える古墳が群立する一帯であり、その西端部に大和神社の本殿は鎮座している

この古墳群を築いた氏族と、大和神社との関係は未だ明確ではない。だが、崇神天皇陵に治定される行燈山古墳もほど近い。国土神を祀る社が、初期大和政権の王墓群のただ中に位置しているという事実は、それ自体が雄弁である。

参道を歩きながら、この森が「遠望すると大古墳に見える」と記した『調査報告』の一文を思い出した。実際に古墳ではないにせよ、ここが死者と神の領域であったことに変わりはない。


ちゃんちゃん祭——大和の祭りはここから始まる

大和神社の祭祀で最もよく知られるのが、四月一日の神輿渡御祭である。

俗に「ちゃんちゃん祭」と呼ばれるこの祭は、大和の祭り始めとして名高い。祭おさめとされる春日大社若宮の祭に対する位置づけである。「大和の祭りはちゃんちゃん祭に始まり、若宮のおん祭に終わる」という言い方は、奈良では今も生きている。

かつては午前中に官祭、午後に私祭として渡御式が行われた。第二次大戦後は簡素になったものの、古式は維持されている。

九月二十三日の大祭は、祭ることのできなかったあの渟名城入姫命の祭である。彼女を祀る渟名城入姫神社は、境外末社として岸田町字サカイに鎮座している。祀りきれなかった巫女を、社は千数百年後も祀り続けているわけだ。

そのほか、一月四日の御弓始祭(八千戈神の例祭)、二月十三日の御田植祭、十一月卯日の新嘗祭、二百十日前より十七日間にわたる風鎮祭、毎月一日・十五日の月次祭がある。


戦艦大和と祖霊社

大和神社を語るとき、避けて通れないのが近代の一面である。

昭和十七年、戦艦大和に守護神として特別神符が遷座された。艦名が国名に由来する以上、その守護神は大和国の国土神である、という理屈だった。

境内の祖霊社は、もともと明治七年に氏子の神葬者のために創建されたものである。以後、旧朝和村の戦死者の英霊を祀ってきたが、昭和二十八年に第二艦隊司令長官以下二七一七座を合祀。昭和四十年には旗艦と運命を共にした各艦の英霊を加え、総計三七二一座を祀るに至った。毎年四月七日が慰霊祭日と定められている。昭和四十四年には、呉市の記念塔にも分霊が奉祀された。

崇神朝の疫病鎮圧に始まり、二十世紀の海の戦に至る。この社が背負ってきた時間の幅に、参拝しながら少し呆然とした記憶がある。


社殿と境内

本殿は東面し、春日造・檜皮葺。三棟が同寸で並び、透塀がこれを囲み、さらに玉垣が拝殿を囲む。現在の本殿は明治五年の建造、十六年に改造されたものである。

拝殿は五間二面の檜皮葺。江戸期には瓦葺で三間二面の仏堂風であり、その北に鐘楼が建っていたという。神仏習合の名残がつい近代まで形として残っていたことになる。

境内には石燈籠が四十四基。石社標の台石は古い神輿台を転用したもので、応永十四年(一四〇七)の銘があるという。参拝の際は足元にも目を向けていただきたい。

伝承では神地は八町四方あり、その四至(四隅)にそれぞれ神社が置かれていたという。艮(北東)に佐保庄の稲荷神社、巽(南東)に成願寺の八王子神社、坤(南西)に新泉の須佐之男神社、乾(北西)に福智堂の弁才天社。今も地図の上でこの四社を結べば、失われた神域の輪郭が浮かび上がる。

摂社の増御子神社(若宮)は二の鳥居の南側に鎮座し、四月朔日の渡御祭には本社神輿とともに渡御する。祭神は豊宇気姫尊とも猿田彦命ともいう。


御朱印

御朱印は社務所にて拝受できる。私が拝受したものは「大和神社」の墨書に社名の印を捺したもので、装飾を抑えた大変力強い一体だった。

御朱印帳を開くたび、この日の順路——石上神宮、大和神社、穴師坐兵主神社、大神神社——が並んで目に入る。奈良盆地の東縁を一日で辿った、あの五月の記憶が呼び戻される。

私がなんとなく思うのは、御朱印に宮司様の思いが込められているケースが非常に多い。大和神社のような力強いものもあれば、住吉大社のような華麗なもの、もちろん同じ神社でも大きな神社の場合は特に一人の方が書かれているわけではないと思うので違いはあるのであるけれど。

御朱印を集める意味は、結局こういう思いを集める、というところにあるのだと思うのだ。
ちょっとかっこつけすぎかも、だが・・。


アクセス

  • JR万葉まほろば線(桜井線)長柄駅から徒歩約7分
  • 奈良交通バス「大和神社前」下車、西へ約400メートル
  • 駐車場あり

長柄駅の標高が約六三メートル、社の鎮座する丘が約六八メートル。わずか五メートルの高まりだが、駅を降りて東を見れば、その森はすぐに目に入る。

大神神社や石上神宮とあわせて山辺の道を歩くなら、少し西へ足を伸ばすことになる。だがこの寄り道は、山辺の道の古社群を「点」ではなく「面」で理解するために、決定的な意味を持つと申し上げておきたい。


参拝を終えて

延喜式神名帳において、大和国山辺郡の筆頭に掲げられた社。伊勢神宮に次ぐ神戸を全国六か国に有した社。丹生川上社を別宮とした社。

それが今、参拝者もまばらな、田圃の中の静かな森である。

だが私は、この落差を悲しいこととは思わなかった。春日・興福寺という新興勢力に領地を削られ、火に焼かれ、記録を失い、それでもこの丘の森は残り、四月一日には神輿が出続けている。

倭大国魂神は、大地を治める神である。大地は、栄えもしなければ滅びもしない。ただそこにあり続ける。この社の在り方は、その神格にふさわしいのかもしれない、と鳥居をくぐりながら思った。

山辺の道を歩く方には、ぜひこの寄り道を勧めたい。


参考文献

  • 式内社研究会編『式内社調査報告』(大和国・山辺郡)皇學館大學出版部 — 「大和坐大国魂神社 三座」pp.971〜979(執筆:石崎正雄)
  • 『日本書紀』崇神天皇紀・垂仁天皇紀
  • 『延喜式』神名帳・臨時祭
  • 『新撰姓氏録』
  • 『新抄格勅符抄』
  • 『続日本後紀』『日本三代実録』
  • 大和神社社頭掲示・社務所配布資料

本記事は、平成十七年五月六日の参拝記録および上記文献に基づいて執筆しました。境内の状況や祭祀の詳細は参拝時点のものであり、現在と異なる場合があります。

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