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葛木御歳神社(中鴨)(奈良県御所市)— 祟る神と、それを守るカフェ

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鴨三社の、真ん中

前回、高鴨神社の記事を「今、迦毛の大御神」と呼ばれた神の物語として書いた。その末尾で、次は中鴨・下鴨を訪ねると予告した。約束どおり、まずは中鴨——葛木御歳神社(かつらきみとしじんじゃ)である。

賀茂氏は葛城の地に、三つの社を残した。北から、上鴨の高鴨神社、中鴨の葛木御歳神社、下鴨の鴨都波神社。この三社を「鴨三社」と呼ぶ。御歳神社は、その真ん中に位置する。

葛木御歳神社 大鳥居

そして、この社を語るには、どうしても一つの言葉から始めなければならない。祟り(たたり)である。

御歳神は、穀物を司る神である。豊かな実りをもたらす一方で、ひとたび怒れば蝗(いなご)を放ち、田の苗を一夜にして篠竹のように枯らしてしまう。古代の人々は、この神を篤く敬い、同時に深く畏れた。その畏れの記録が、記紀や延喜式のなかに、いくつも残されている。

令和八年八月、私はこの社を訪れた。そこで出会ったのは、古代から祟りをもって恐れられた神と——意外にも、一杯のコーヒーだった。その話は、最後にしよう。


基本情報

項目 内容
社名 葛木御歳神社(かつらきみとしじんじゃ)
式内社名 葛木御歳神社(名神大・月次・新嘗)
通称 中鴨社・御歳明神
鎮座地 奈良県御所市東持田269
主祭神 御歳神(みとしのかみ)
相殿 大歳神・高照姫命
旧社格 名神大社
位置づけ 全国の御歳神社・大歳神社の総本社
参拝日 令和八年八月八日

社名と祭神 — 「御歳」とは何か

延喜式神名帳には「葛木御歳神社」として登載され、名神大社に列する。九条家本では葛木御歳神社、金剛寺本では読みの訓註が付されている。俗に御歳明神とも呼ばれ、背後には秀麗な三歳山(みとしやま)がそびえる。高鴨・鴨都波に対して中鴨社と称されるのは、前述のとおりだ。

葛木御歳神社 拝殿

祭神は、御歳神・大歳神・高照姫命の三柱。中心となる御歳神は、大歳神の子であり、須佐之男命の孫にあたる、穀物を司る神である。

ここで「御歳」の意味を押さえておきたい。調査報告が引く明細帳は、この点を明快に説明している。社号を「御歳」と称するのは、御歳神そのものというより、「年穀(としのみのり)」の義、すなわち「年穀を主宰し給う神の社」という意味だ、と。延喜の祈年祭祝詞に「御歳の皇神(すめがみ)」とあるのも同じで、御歳神社とは要するに、その年の穀物の稔りを司る神を祀る社なのである。

相殿の高照姫命については、配祀の由緒がはっきりしない。旧事本紀は「高照光姫大神命、倭国葛上郡の御歳神社に坐す」と記すが、『古事記伝』はこれを、延喜式神名帳の並び(事代主命の社の次に御歳神社が来る)から、事代主命の妹神を当てずっぽうに配したものだろうと、あっさり退けている。ここでも祭神をめぐる不確かさが顔を出す。式内社を読むとは、こうした揺れと付き合うことだ。


御歳神の祟り — 古語拾遺が伝える神話

この社の核心は、『古語拾遺』が伝える一つの神話にある。御歳神総本社の由緒として、これほどふさわしい話はない。少し丁寧に追ってみたい。

茅の輪と拝殿

今回の記事を書くために『古語拾遺』を買って読んでみた。

昔、神代のこと。大地主神(おおとこぬしのかみ)が田を作る日に、牛の肉を田人(たひと)に食べさせた。ちょうどそのとき、御歳神の御子がその田を訪れた。田の饗(あえ)に牛肉が出されているのを見た御子は、これに唾(つば)を吐きかけて還り、父である御歳神に、その様子を告げた。

御歳神は怒った。田に蝗(いなご)を放ったのである。すると苗の葉はたちまち枯れ、篠竹(しのだけ)のようになってしまった。

驚いた大地主神は、片巫(かたかんなぎ)・肱巫(ひじかんなぎ)に占わせて、原因を求めた。占いは告げる——これは御歳神の祟りである。白猪(しろいのしし)・白馬(しろうま)・白鶏(しろにわとり)を献じて、その怒りを解くべし、と。

大地主神が言われたとおりに謝ると、御歳神は答えた。「実(まこと)に、これは我が意である」。そして、麻柄(あさがら)で作った具や、烏扇(からすおうぎ)で扇ぐ作法、溝口に牛肉を置き、山椒・呉桃(くるみ)の葉などを畦に散らす方法など、蝗の害を鎮めるための具体的な呪法を、細かく授けた。大地主神がそのとおりにすると、苗の葉はふたたび茂り、年穀は豊かに稔った——。

『古語拾遺』は、この神話をこう結ぶ。これが、今の神祇官が白猪・白馬・白鶏をもって御歳神を祭る縁(ゆえん)である、と。

そして重要なのは、この神話が単なる伝承に終わっていない点だ。延喜の祈年祭式には、はっきりと「御歳社に白馬・白猪・白鶏、各一」を加えて奉る、と規定されている。神話に語られた祟りの鎮め方が、律令国家の公式の祭祀規定として、そのまま制度化されているのである。

祟りという神話が、国家の祭式に化石のように埋め込まれている。私は式内社を巡っていて、こういう瞬間にいちばん興奮する。目の前の一社が、古代の信仰と律令制度を、一本の糸でつないでいるのだ。


もう一つの祟り — 貞観八年の事件

御歳神が「祟る」神であることは、神話のなかだけの話ではない。歴史時代の記録にも、それははっきりと現れる。

『日本三代実録』の貞観八年(八六六)二月十三日の条に、神祇官の奏上として、こう記されている。大和国の三歳神(=御歳神)には、もともと神主がいなかった。それを新たに置いたところ、祟り咎(たたりとが)を致した。その原因はこれ(神主を置いたこと)にある。よって、やはり神主を置くのを取りやめた、と。

これは、じつに興味深い記録である。神を丁重に祀ろうとして神主を新設したところ、かえって祟りが起きた。だから元に戻した——。御歳神は、人の側の都合で扱いを変えることを、祟りをもって拒んだのだ。

古代の人々にとって、祟りとは、神が自らの意思を人間に伝える手段だった。御歳神は、その意思を、繰り返し祟りによって示している。神話のなかで牛肉への不快を蝗で示し、歴史のなかで神主新設への拒否を祟りで示す。この社の神は、一貫して「祟る」ことで語る神なのである。


格式 — 名神大社としての厚遇

御歳神が畏れられた神であると同時に、朝廷から篤く遇された神であったことは、記録が証明している。

神階は、仁寿二年(八五二)に大和国御歳神へ従二位、貞観元年(八五九)に正二位・葛木御歳神へ従一位が授けられている。神戸(かんべ)は、天平神護元年の記録で十三戸、その内訳は大和三戸・讃岐十戸である。

奉幣の記録も注目に値する。貞観十二年(八七〇)、河内国の堤が水害に遭わぬよう祈るため、朝廷は使者を遣わし、大和国の三歳神・大和神・広瀬神・龍田神に幣帛を奉った。御歳神が、大和神社や、風雨の神である広瀬・龍田と並んで、国家的な祈願の対象とされていたことがわかる。穀物の神は、すなわち水と天候の神でもある。その神格が、この奉幣に表れている。

そして醍醐天皇の延喜の制において、名神大社に列し、祈年・月次・新嘗の案上幣帛に預った。祈年祭の例幣のほかに、必ず白猪・白馬・白鶏を各一を加えて奉る——あの古語拾遺の神話が、ここでも制度として繰り返される。

新撰姓氏録によれば、この社の祝(はふり)を務めたのは、大物主神の五世孫・意富多多根子命(おおたたねこのみこと)の後裔とされる。三輪の大神神社を祀った、あの太田田根子の一族である。賀茂氏の葛城と、三輪の信仰とが、祭祀氏族を通じてつながっている点も見逃せない。


中世の衰退と、明治の合祀

これほどの格式を誇った御歳神社も、中世以降は衰退の道を辿る。

明治二十四年の明細帳が、その経緯を生々しく伝えている。かつて社領は高二百石余りを有し、御歳寺と称する別当寺や末院も数多くあって、社務を司っていた。ところが——伝来の書類は、御歳寺が昔火災で焼失した際に過半が焼亡し、その後も金剛寺が該寺を兼務していたが、その金剛寺もまた焼失し、残る書類もことごとく烏有(うゆう)に帰した、というのだ。

火が、二度にわたってこの社の記録を奪った。かつて金剛山から蝗除けの祈祷を行うほど広く信仰された社が、書類を失い、記憶を失っていく。これは、大和神社新屋坐天照御魂神社の記事でも繰り返し見てきた、式内社に共通する運命である。

明治二十四年当時の氏子は約二百戸。かつての隆盛からは、ずいぶん小さくなっていた。


社殿と境内

本殿は一間社春日造、桁行七尺・梁行九尺の檜皮葺。拝殿は桁行四間半・梁行一間半である。調査報告の写真で見る本殿は、こぢんまりとしながらも端正な佇まいだ。
新緑の背景に朱色がよく映える。

葛木御歳神社 本殿

境内の石燈籠には、文化十四年(一八一七)の「常夜燈」、天保十二年(一八四一)、弘化三年(一八四六)といった江戸後期の紀年銘が刻まれている。境内末社には、味鉏高彦根神社・事代主神社・一言主神社・高皇産霊社・神皇産霊社・天照皇大神社などが並ぶ。味鉏高彦根神・事代主神・一言主神——高鴨・鴨都波の主祭神が、ここ中鴨社の末社としても祀られているのが興味深い。鴨三社の神々が、互いに響き合っているのである。

事代主命神社

大稚彦命神社

例祭は十月十九日。かつては毎年八月二十七日・二十八日をもって祭を行ったと『神祇志料』は伝える。


参拝記 — 祟る神を守る、一杯のコーヒー

令和八年八月八日、私は葛城の名神大社を巡る一日のなかで、この中鴨社を訪れた。三歳山を背にした社は、鴨三社の真ん中にふさわしい、落ち着いた佇まいだった。第一駐車場は社務所の近くに四、五台、第二駐車場に十数台。参拝そのものは、静かに済んだ。

驚いたのは、御朱印である。

御朱印は、宮司さんのご自宅を兼ねたカフェで授与されていた。しかもその宮司さんは、カフェの店主も兼ねておられる。おしゃれな装いで現れた宮司さんは、こだわりの豆でコーヒーを淹れる、れっきとしたバリスタでもあった。御朱印は三百円。参道階段下の社務所兼カフェ兼ご自宅への通路のところに、カフェの定休日でも御朱印は授与していただけるとの記載があった。(十六時まで)。

正直に言えば、少し面食らった。古語拾遺で蝗を放ち、三代実録で神主の新設を祟りで拒んだ、あの畏(かしこ)き御歳神の社が、今はおしゃれなカフェとともにある。この落差に、最初は戸惑いすら覚えた。

だが、境内を後にしながら、私の受け止めは変わっていった。

 

参道の階段 この右手にカフェ兼社務所がある

近年、経営の厳しい神社は少なくないと聞く。とりわけ、御歳神社のように中世の火災で記録も社領も失い、氏子も減った古社にとって、社を維持していくことは、決して容易ではないはずだ。そのなかで、宮司さんは神職とバリスタを兼ね、カフェという場を通じて、人がこの社に足を運ぶ理由を作っている。これは、千年以上続く社を次の世代へ手渡していくための、たくましい工夫なのだ。

考えてみれば、御歳神はもともと「実り」を司る神である。田を耕し、作物を育て、糧を得る——人が生きていくための営みを、見守り、ときに祟ってでも正しい道を示してきた神だ。その神を守る現代の宮司さんが、豆を選び、コーヒーを淹れ、人をもてなす。かたちは変われど、「人の営みのなかに神を置く」という点で、両者は案外、地続きなのかもしれない。

一つだけ、心残りがある。あの日は喉が渇いていて、こだわりの豆で淹れるアイスラテを、ぜひ一杯いただきたかった。だが、この日は名神大社を五社巡る強行軍で、時間に余裕がなかった。お店にはご婦人が2名、美味しそうなデザート共にコーヒーを味わっていたようだ。うらやましい・・・。飲みそびれたラテは、次に御歳神社を訪ねる、確かな理由になった。祟る神の社で、コーヒーを楽しみに再訪する——我ながら、悪くない口実だと思う。もちろん健康のため砂糖は抜きで。


アクセス

  • 近鉄・JR「御所駅」から奈良交通バス五條行き「小殿」下車、東南方
  • 御所市東持田269。北面鎮座、背後に三歳山
  • 第一駐車場(社務所近く)4〜5台、第二駐車場十数台

葛城の道の一部にあたり、北の高鴨神社、下鴨の鴨都波神社とあわせて巡れば、賀茂氏が葛城に展開した鴨三社の全体像が見えてくる。御朱印は宮司さん宅を兼ねたカフェでの授与となるため、参拝前に場所を確認しておくとよい。


参拝を終えて

御歳神は、祟る神である。だがそれは、この神が人の営みに深く関わってきたことの、裏返しでもある。実りをもたらす神は、実りを損なう力も持つ。恵みと畏れは、一つの神の表と裏だ。古代の人々は、そのことをよく知っていた。だからこそ、白猪・白馬・白鶏を献じ、細やかな作法を守って、この神の機嫌を損なわぬよう努めた。その祈りが、延喜式の祭式に、いまも化石のように残っている。

そして令和のいま、その神を守るのは、コーヒーを淹れる宮司さんである。火災で記録を失い、氏子が減っても、社は続いている。祟る神は、かたちを変えて、今日も葛城の中鴨に坐(ま)す。

次は、下鴨——鴨都波神社を訪ねた記録を書こうと思う。これで、賀茂氏が葛城に残した鴨三社が、ようやく揃う。


参考文献

  • 式内社研究会編『式内社調査報告』(大和国・葛上郡)皇學館大學出版部 — 「葛木御歳神社」pp.233〜236(執筆:池田末則)
  • 『古語拾遺』
  • 『延喜式』神名帳・祈年祭式
  • 『日本三代実録』貞観八年二月条・貞観十二年七月条
  • 『日本文徳天皇実録』
  • 『新抄格勅符抄』
  • 『新撰姓氏録』大和国未定雑姓
  • 『先代旧事本紀』『大神分身類社鈔』
  • 『神祇志料』
  • 明治二十四年「明細帳」/奈良県神社取調書

本記事は、令和八年八月八日の参拝記録および上記文献に基づいて執筆しました。御朱印の授与方法や境内の状況は参拝時点のものであり、変わる場合があります。

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