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地中に埋められた神剣と、鶏が歩く神域 — 物部氏の総氏神(奈良県)延喜式内社 石上神宮

石上神宮 ニワトリ 延喜式内社巡り
石上神宮 ニワトリ
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石上神宮 御朱印

延喜式内社巡り / 奈良シリーズ


2025.07.09

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目次

  1. 基本情報
    1. 鎮座(所在地)
    2. 創祀
    3. 社格等
    4. 御祭神
      1. 主祭神
      2. 配祀神
      3. 摂末社(主要)
  2. 縁起
  3. 交通情報
    1. 公共交通機関
      1. 駐車場
  4. 参拝記
    1. 大神神社と同じ日に「山の辺の道」で結ばれた二社
    2. 「神宮」を名乗れる神社は日本にいくつあるか
    3. 神剣フツノミタマ — 地中深くに埋められた御神体の謎
    4. 物部氏とは何者か — 軍事と祭祀を担った古代最強の氏族
    5. 明治7年の「禁足地発掘事件」— 150年前に掘り出された神剣
    6. 国宝の拝殿と、境内を歩く鶏
    7. 延喜式から「神宮」の称号が消えた謎
    8. 御朱印

基本情報

鎮座(所在地)

奈良県天理市布留町384番地

創祀

崇神天皇7年(約2100年前)。物部氏の遠祖・伊香色雄命が、神剣・布都御魂(フツノミタマ)を石上布留の高庭に奉斎したことに始まる。日本最古の神社の一つ。

社格等

延喜式:式内社(名神大社)大和国山辺郡 石上坐布都御魂神社

旧社格:官幣大社・二十二社(中七社)

現在:神社本庁別表神社・神宮号(「石上神宮」)

御祭神

石上神宮 社名碑

主祭神

布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)— 神剣韴霊(ふつのみたま)に宿る霊威
布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)— 天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみたから)に宿る霊威
布都斯御魂大神(ふつしみたまのおおかみ)— 素盞鳴尊が八岐大蛇退治に用いた天羽斬剣に宿る霊威

配祀神

宇摩志麻治命(うましまじのみこと)— 物部氏の祖神
五十瓊敷命(いにしきのみこと)— 剣一千口を作り神庫に納めた皇子
白河天皇 / 市川臣命

摂末社(主要)

出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)— 国宝の拝殿を持つ摂社(式内社)。素盞鳴尊の子・大歳神を祀る
天神社 / 七座社 / 貴船神社 ほか


縁起

石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山の西の麓、布留山(標高266メートル)の北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残している。

主祭神の布都御魂神は、神代に武甕雷神がおびていた霊剣で、平国之剣ともいわれる。記紀によれば、神武天皇東征の時に天降られ、邪神を破り、国々を平定された威徳により、物部氏の遠祖・宇摩志麻治命をして宮中に奉斎された。のち崇神天皇七年、物部の伊香色雄命が大臣の職にあった時、詔により天社・国社を定めて八百万神を祀らしめられ、布都御魂神と共に石上の高庭の地に祀られ、石上大神と称えたのが石上神宮のはじめである。

平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿を寄進されたものと伝えている。当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地を御本地と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていた。明治7年、菅政友大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正2年に御本殿が造営された。


交通情報

公共交通機関

JR桜井線(万葉まほろば線)・近鉄天理線 天理駅より徒歩約30分(山の辺の道経由)
またはタクシーで約10分

天理駅から山の辺の道を歩くルートが風情があっておすすめ。大神神社(三輪駅)から山の辺の道を北上しても徒歩約2時間(約8km)。

名阪国道 天理東ICより県道51号経由で約5分
西名阪自動車道 天理ICより県道51号経由で約10分

駐車場

境内に参拝者用駐車場あり(無料)。


参拝記

大神神社と同じ日に「山の辺の道」で結ばれた二社

H17.5.6(2005年5月6日)、奈良県天理市に鎮座する石上神宮を参拝した。

私が中学三年生の修学旅行の折、京都・奈良の複数のコースからクラス単位で選択できるようになっていて、なぜか「山の辺の道コース」を選んだ。

当時から実は考古学に興味を持っていて(だからこの歳になってそれを勉強するために大学に入学してしまった・・・。)、そのため、という訳ではなく、神社にも別にさほど興味を持ってはいなかった。

でも、その時のコースを又歩いてみたいな、とおもってこの日の参拝旅行と相成った。

もっともその時と違うのは、修学旅行ではないので寄り道上等!、寄り道しやすいように大神神社近くで乗り捨てOKのレンタサイクルを確保して万全の体制で臨んだその最初の参拝社っであったわけだ。

だから、前回ブログで上げた大神神社(桜井市三輪)と同日参拝だった。大神神社から石上神宮へは、日本最古の道とも称される「山の辺の道」で北上するルートが有名らしいのだが、修学旅行の思い出を追う旅でもあったので、その時と同じ石上神宮から南下して大神神社に向かうルートとなっている。三輪山のふもとから天理の布留山麓まで続くこの古道を歩けば、途中に無数の式内社・古墳・万葉歌碑が点在する。大和国の古代史を体で感じながら歩く道として、これ以上の経験はそうない。古代史ファンとしては最高のルート。

前回の大神神社記事で「大国主命の和御魂を祀る神社」の話を書いた。今回はその大神神社と同日に参拝した神社——武器の神・剣の神として古代国家を支えた石上神宮だ。三輪の「農耕・縁結びの神」と、布留の「軍事・武器の神」。同じ日に二社を参拝することで、古代大和の神々の世界の対照的な二面性を感じることができた。

石上神宮 参道石上神宮 大鳥居

「神宮」を名乗れる神社は日本にいくつあるか

「石上神宮」という名称に注目したい。「神宮」という称号は、日本の神社の中でも特別な位置づけを持つ。

現在「神宮」を正式名称に持つ神社は、伊勢神宮・熱田神宮・明治神宮・平安神宮など24社ほどあるが、古代において「神宮」と呼ばれていたのは伊勢と石上の二社だけだった。8世紀に完成した日本書紀に「神宮」と記されたのは伊勢と石上の二社のみなのだ。

ところが、平安時代・927年にまとめられた延喜式神名帳には、伊勢・鹿島・香取の三社のみが神宮で、石上が抜け落ちている。

日本書紀では伊勢と並んで「神宮」だった石上が、400年後の延喜式では神宮号を失っていた——この謎については後述する。いずれにせよ、石上神宮が明治16年(1883年)に神宮号を復称したことは、千年以上前の地位への「復権」とも言える出来事だった。

神剣フツノミタマ — 地中深くに埋められた御神体の謎

石上神宮の最大の特徴は、御神体が「神剣」であることだ。

御祭神の布都御魂大神は神剣・韴霊に宿られる霊威。神武天皇がこの神剣によって、東征の際に悩まされた邪神を平らげたと伝えられている。かつては本殿をもたず、地中深く埋められた神剣と神宝を祀っていた。

「神様が剣に宿る」という発想は、現代の感覚からするとやや奇異に感じるかもしれない。しかし古代の人々にとって、鉄の剣は単なる武器ではなかった。邪気を払い、敵を退け、国家を守護する霊的な力の結晶——それが神剣だった。

フツノミタマという名の「フツ」という言葉にも諸説ある。「この神は、物を斬るフツの擬声語と解する立場がほとんど」だが、フツは朝鮮語からきており、「フツノミタマは光輝く剣の神」という説もある。「斬る音のフツ」か「光輝く剣のフツ」か——このような語源論もまた、式内社巡りの醍醐味のひとつだ。

物部氏が累代奉仕の任務につき、素盞鳴尊が八岐大蛇を退治された天羽斬剣も祀られ、我が国の霊剣は草薙剣を除き当宮に祀られることになった。

日本神話に登場する霊剣のほぼすべてが、草薙剣(熱田神宮)を除いてここ石上に集められていた——石上神宮は「武器の保管庫」という説は非常に有名なのだが、これは単なる「武器の保管」ではなく、古代ヤマト王権の「霊的な力の集積地」としての性格を示している。

1982年(昭和57年)発行の『式内社調査報告 第三巻(京・畿内3 大和B)』によれば、平安奠都に伴って延暦23年(西暦803年)に神宮の器杖を石上神宮に運ぶために要した人員が15万7千人余りになったそうだ。それだけ膨大な数の神宝が合ったのだろう、と想像される。これは当然刀だけではなく、多くの「霊的な宝」も含んでいたのでは、と考えると本当にワクワクする。

石上神宮 拝殿

物部氏とは何者か — 軍事と祭祀を担った古代最強の氏族

石上神宮を語るうえで物部氏は欠かせない。

当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきた。

物部氏は、大和朝廷において軍事と祭祀の両方を担った古代最強の氏族だ。物部氏は祭祀を司るとともに、軍事氏族としての一面も有していた。その祖先は天孫降臨の際にニニギノミコトに従って地上に降り立ったニギハヤヒノミコトとされ、神武天皇の東征以前から大和盆地に定着していた一族だ。

大阪シリーズで書いた杜本神社(羽曳野市)では「延喜式の名神大社格の背後に藤原氏の影がある」という考察を書いた。それと対照的に、石上神宮の背後には「物部氏」という別の古代豪族の存在がある。

6世紀、仏教の受容をめぐって物部氏は蘇我氏と激突し、587年の丁未の乱で物部守屋が敗死すると物部氏は事実上解体される。その後、686年ごろ、物部氏から石上氏に名を改めた一族が本家となり朝廷内でも復権。8世紀には左大臣を出すまでに石上氏は繁栄したが、9世紀前半までには衰退した。

物部氏の栄枯盛衰とともに歩んだ神社——それが石上神宮だ。

明治7年の「禁足地発掘事件」— 150年前に掘り出された神剣

石上神宮の歴史で最もドラマチックな出来事が、明治7年(1874年)の禁足地発掘だ。

明治初期になって拝殿奥の禁足地の発掘を行ったところ、神剣韴霊をはじめ数々の大刀や鏡、玉類などが出土した。

長年「地中に神剣が埋まっている」と伝えられながら、誰も立ち入ることのできなかった禁足地。その土を掘り起こした菅政友大宮司の決断は、当時かなり大きな議論を呼んだはずだ。地中から出てきたのは、伝承通り神剣と神宝の数々。千年以上の時を経て、神剣は地上に姿を現した。

御祭神である布都御魂大神のご神体・神剣韴霊が石上布留の高庭(現・禁足地)に遷され祀られたことから石上神宮は創祀され、以来永らく土中深くに鎮まっていた神剣韴霊が明治7年8月、菅政友大宮司の主導で行われた禁足地の発掘調査により顕現。

2025年には「神剣フツノミタマ顕現150周年」の特別展が開催されるなど、現在も神剣は石上神宮の信仰の中心として生き続けている。

現在の禁足地は「布留社」と刻まれた剣先状の石瑞垣で囲まれており、昔の佇まいを残している。拝殿から禁足地を見つめると、千年以上の間ここに神剣が眠っていたという事実の重みをじわじわと感じる。

石上神宮 楼門

国宝の拝殿と、境内を歩く鶏

石上神宮 ニワトリ

石上神宮の境内で真っ先に目を引くのが、国宝に指定された拝殿だ。

国宝の拝殿は神社建築としては最古のもので白河天皇の御代に宮中から神嘉殿を移築したものと伝えられている。平安時代後期・1081年の建造とされ、神社の拝殿としては現存最古の建築だ。

この拝殿の前で参拝者を驚かせるのが、境内を自由に歩き回る鶏の姿だ。石上神宮の境内には神の使いとして鶏が放し飼いにされており、境内のどこかで必ず鶏に出会える。神聖な境内を闊歩する鶏——この光景は全国でも石上神宮ならではのもので、初めて訪れた人には少なからぬ驚きと親しみを与える。

しかも平成17年の参拝時の写真をチェックしていたら、なんときちんとニワトリの写真をおさえていた!

石上神宮 神鶏

また境内の楼門(重要文化財)は鎌倉時代1318年の建造。江戸時代まで鐘楼門として使われていたので、明治時代に廃仏毀釈が行われるまで鐘が吊るされていた。神仏習合の時代の痕跡が、今も楼門の姿に残っている。

延喜式から「神宮」の称号が消えた謎

最後に、冒頭で触れた「延喜式での神宮号消失」の謎に戻りたい。

日本書紀では伊勢と並んで「神宮」と称されていた石上が、なぜ927年の延喜式では神宮号を失っていたのか。

鹿島神宮にはタケミカヅチ神が祀られ、フツノミタマの剣を神宝としている。香取神宮にはフツヌシ神を祀る。フツヌシの「フツ」は剣名と共通だから、これら二社が石上に代わってフツノミタマを祀る存在になったことを示している。

要するに、石上神宮が祀っていた「フツノミタマ」という剣の霊威が、鹿島・香取という新しい神宮に分散・移行していった可能性があるのだ。

さらに物部氏の滅亡(587年)もこの流れと無関係ではないだろう。物部氏という強力なパトロンを失った石上神宮は、政治的な後ろ盾を失い、代わりに藤原氏と結びついた春日大社や鹿島・香取が台頭していく——このシリーズで繰り返し見てきた「政治権力と神社格式の連動」が、ここでも起きていた。

千年以上前に失われた神宮号を、明治16年に取り戻した石上神宮。その歴史の重みは、うっそうとした常緑樹に囲まれた境内の空気に、今もはっきりと漂っていた。

御朱印

社務所にて授与。力強い墨書きで「石上神宮」と記される。摂社・出雲建雄神社(国宝の拝殿あり)でも個別に御朱印をいただける。(私はもらい忘れました・・・)

※御朱印の授与状況(直書き・書き置き・初穂料等)は変更になる場合がありますので、事前にご確認ください。電話:0743-62-0900


カテゴリ: 延喜式内社巡り / 奈良県の神社

タグ: 布都御魂大神 / 物部氏 / フツノミタマ / 神剣 / 二十二社 / 式内名神大社 / 山の辺の道 / 天理市 / 禁足地 / 国宝 / 鶏


 

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