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黄門様と戦い民衆に慕われた?(茨城県)水戸八幡宮

茨城県の神社
水戸八幡宮 御朱印
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基本情報

鎮座(所在地)

茨城県水戸市八幡町8-54

社格等

常陸国水府総鎮守
旧社格:県社

御祭神

誉田別尊(ホンダワケノミコト)[応神天皇]
息長足日売尊(オキナガタラシヒメノミコト)[神功皇后]
姫大神(ヒメノオオカミ)[比売神]

御神徳

農工商の神、厄除、子育て、戌亥年生まれの守護神
厄除、商売繁盛、家内安全、安産子育て、病気平癒、交通安全、戌亥年守護、入試合格

縁起

当宮は、源氏の流れをくむ戦国大名佐竹義宣公により、文禄元年(1592)水府(水戸)總鎮守として創祀されました。
義宣公は水戸入城にあたり、源氏の守護神たる八幡大神を、本拠地で会った常陸太田馬場より勧請し、慶長三年(1598)には五十四万石の財力と「御大工」と称される百人ほどのお抱え大工集団の優秀な技術力をもって、現在の北見町に安土桃山時代の様式美を備えた御本殿を建立しました。
しかし、その四年後、佐竹氏は秋田へ移封され、水戸は徳川氏の所領となりましたが、当宮は三百石の朱印を得て存続し、徳川水戸藩よりも尊宗されました。
元禄七年(1694)、二代藩主光圀公の寺社政策によって、当宮は那珂西村(現・城里町那珂西)へ移遷されましたが、三代藩主綱條公の時代、時の宮司田所修理清澄を始め氏子の請願により、宝永六年(1709)、再び水戸に遷座されました。その際、白鶴が一羽舞い降りて現在の神域を卜定したと伝わります。
四百二十年余の星霜を重ねる中、幾多の天災、戦災を免れ、うっそうとした鎮守の杜、数多くの文化財、伝統的祭事を継承して今に至り、厄除、商売繁盛、家内安全、安産子育て、病気平癒、交通安全、戌亥年守護、入試合格など八万を照らす御神徳を景仰する多くの参詣者より、清浄な祈りの杜、心の依り所の御社として厚い崇敬を受けています。
「水戸白旗山・水府創鎮守 八幡宮 由緒書(境内掲示)」より

水戸八幡宮 由緒書等

交通情報

公共交通機関

鉄道・バス

JR水戸駅北口より
「栄町2丁目経由茨大前行」バスにて「栄町2丁目」バス停下車
「市内循環線」バスにて「八幡宮入口」バス停下車

常磐自動車道水戸ICから水戸市街方面へ約20分

駐車場

大鳥居外に数十台程度駐車できる駐車場あり(参拝者無料)

参拝記

水戸八幡宮 大鳥居

水戸の街の総鎮守、「水戸八幡宮」。だが、正式名称は「水戸」のない「八幡宮」。
もともとは由緒書きにあるとおり、源氏の神様としての八幡神をこちらの勧請したことから始まる。
境内に「火伏せの神」が祀られていて、このエピソードが面白い。
元々江戸・東京の総鎮守「神田明神」でイザナギ・イザナミ両神をお祀りして山車に乗せて巡行したところ、実施した神田佐久間町が火事に見舞われてしまった。その後、そうした過去のエピソードを知らない水戸の現在の末広町にその山車が譲られたが、その末広町も火事で焼けてしまった。いろいろ考えたところ、「イザナギ・イザナミ両神」を山車に乗せたりするからこういうことが起こるのだ、ということになり、「八幡様」にお祀りしようと水戸八幡宮にやってきたとのこと。その後火事が街で起こっても大事にならず、太平洋戦争で八幡宮は被害を受けることがなく、「火伏せの神」として信仰されているとのことです。

水戸八幡宮 火伏せ神
水戸八幡宮 参道

江戸時代から長きにわたって信仰されている神社だけあり、周囲は住宅地ですが、この一帯は鎮守の森に囲まれていて、民衆から大事にされてきたのだろうなと感じさせられます。

水戸八幡宮 拝殿

前述の由緒書きの記述には控えめに書かれていますが、水戸藩2代藩主徳川光圀と3代徳川綱條の頃にかなり大規模な八幡宮に対する弾圧に近い出来事があったようだ。
諸説あるのだが、八幡信仰には神仏習合的な要素が強く、『大日本史』を400年掛けて編纂した水戸藩には国粋主義的な思想が強かったのかもしれない。
また、現実的にはかつての支配者であった佐竹氏の守護神であった八幡神を心理的に抑圧したのかもしれない。

最終的には氏子の陳情があってこの地に還ってきたというところが素晴らしい。

境内の摂社・末社もいずれもきれいに整備されていて、とてもすがすがしい神社らしい神社に思えた。

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