基本情報
鎮座(所在地)
兵庫県神戸市西区伊川谷上脇字鬼神山1005

拝殿
創祀
不明
延久三年(一〇七一)再建
社格等
延喜式:式内社(小)論社(明石郡 九座(大三座・小六座) 小社:物部神社[論])
旧社格:郷社
※延喜式内社「物部神社」のもう一つの論社は可美真手命神社
御祭神
主祭神
大己貴尊(おおなむちのみこと)
配祀神
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
経津主尊(ふつぬしのみこと)
武甕槌尊(たけみかづちのみこと)
縁起
惣社は、大己貴尊、素戔嗚尊、経津主尊、武甕槌尊を祭り、物部神社とも称され、延久三年(一〇七一)の再建と伝えられている。延喜式の制に於いては小社に列し、伊川谷の総氏神として崇められ、明治七年(一八七四)には郷社に列せられた崇敬篤き神社である。旧社殿は宝暦十一年(一七六一)に造営されたものであり、社殿の老朽化に加えてその後平成七年(一九九五)阪神淡路大地震に遭遇し、甚大な被害を受けたが、逸速く氏子崇敬者より多大な浄財を得て平成七年(一九九五)建設委員会を立ち上げ第一期工事として「拝殿の再建」を行い、次いで復興委員会を組織し第二期工事として「本殿解体修復」「玉垣及び石積」「境内社建替」「手水舎建替」工事に着手、八年の歳月を要し、平成十六年(二〇〇四)に完成し、創建当初の様相を見るに到る。此処に記念碑を建立し永く後世に語り継ぐものである。境内『惣社復興事業記念碑』より

復興事業記念碑
神功皇后が、朝鮮遠征の帰途、明石川から伊川を船でのぼり、ここで一休みして、「大国主命をここに祀れ」と命じたのが、この惣社の創始であると伝えられている。創立年代は詳らかでないが、後三条天皇の延久3年(1071)9月再建し、太山寺密教院の定喜法師の勧請と伝える。ここでいう勧請とは、再建の時のことをいうのであろうと思われる。また、『延喜式』の物部神社、『国内鎮守大小明神社記』所載の明石郡九座の一つ惣部明神を、当社にあてている。5世紀後半には大和王朝が確立し、明石の囲も国造によって治められる事になり、6世紀には、大和王朝の物部系の郡司により、郡中の神社の神々を集めて祀ったことから、13世紀の鎌倉時代以降は惣社といわれるようになった。また、江戸時代、明石城主の崇敬篤く、三石の黒印領を寄せている。神社背後の鬼神山には数基の古墳がみられ、調査の結果、鏡や土器の形式から四世紀のものと推定され、早くから文化の進んだ地域であったことがわかる。現在の本殿は、宝暦11年(1761)に、旧社殿の古材を用いて造営されたものである。兵庫県神社庁ウェブサイトより引用
交通情報
公共交通機関
明石駅より太山寺線バス14系統「新末田橋バス停」
又は「宮の前バス停」下車北へ徒歩8分
車
第二神明道路 大蔵谷ICより5分
駐車場
本殿境内地に向かって左側に大きな駐車場あり
参拝記
2019年8月末の夕方、だいぶ日が傾いてきた頃に参拝。
惣社(総社)の名前がつけられているが、播磨国の総社は射楯兵主神社とされていて、近接した摂津国の総社は不明とされているので、恐らく一般的な総社として扱われているのではなさそうである。
延喜式の明石郡の項に「物部神社」とされている神社の論社とされていて、当社以外には可美真手命神社がその論社(候補)で、この日に参拝した「住吉神社」の近くに鎮座している。(可美真手命神社は住吉神社が管理している模様。)

旧鳥居(式内の文字)
当社の「復興事業記念碑」によれば、伊川谷の総氏神とされていて、そういう意味での惣社なのかもしれない。
神戸から明石周辺の古社には神功皇后の伝説が色濃く残っていて、皇后が新羅征伐に出かけた際の経緯で鎮座しているケースが多い。
当社も同様で、この地に「大国主命」を祀れと皇后が指示したことがその由緒となっているらしい。
不思議なのは、「大国主命」を祀れと指示されたのに、主祭神の一柱は「大己貴命」と別名称(一般的には同一神とされているが)であることだ。
大国主命=大己貴命=大物主神=葦原志許男神とされているが、異なった名前がついているのだから同じではないのではないか、と常日頃から考えていて、大国主命を祀れと云われて大己貴命が祀られている当社のケースがなにかある種の答えを提示してくれるのではないかといろいろ考えてみたりする。
良い考えが浮かんでいるわけではないのだが・・・。

拝殿の社名額

忠魂碑

境内(中央に土俵)
一生懸命日本書紀を読み返してみたが、当社に関係しそうな記述を見つけることは出来なかった。(播磨国風土記も見てみたが、そもそも明石郡については欠落していて、ごく一部が逸文として残っているだけなので当然記載がない。)
当社の鎮座する所在地の住所は「鬼神山」という名前がついているが、当社の背後にある「鬼神山」に「鬼神山古墳(きしんやまこふん)」がある。
発掘記録によると4世紀頃の古墳であるらしい。西暦で考えると概ね古墳時代にあたるので、神功皇后の活躍していた時期と齟齬はないことになる。
この古墳の主と当社には深い関係がありそうだ。
御朱印
参拝した時間が遅く、社務所がしまっていたため拝受できなかった。
通常の参拝時間帯に対応頂けるかは不明。
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