基本情報
鎮座(所在地)
兵庫県三木市志染町御坂243
創祀
第33代崇峻天皇 元年戌申九月九日
社格等
延喜式:式内社(小社 御坂神社)
旧社格:郷社

社名碑・大鳥居
御祭神
主祭神
左殿:大物主神(おおものぬしのかみ)
中殿:八戸掛須御諸神(やとかけすみもろのかみ)
右殿:葦原志許男神(あしはらしこおのかみ)
縁起・御由緒
当神社は、播磨風土記によると、人皇三十三代宗峻(すしゅん)天皇(587~592)御宇元年戌申九月九日の創建で、許曽社(コソノヤシロ)にして、延喜式神名帳には「美囊郡(ミナギノゴオリ)一座 御坂神社」とある。その延喜式内神社が当社とされている。延喜式内社とは、延喜五年(九〇五)から延長五年(九二七)に編せんされた延喜式という神名帳に登録された神社を云うのであって、三木市では唯一 一座 当神社が登録されている。当神社については、同風土記に「志深(染)の里、三坂にます神、八戸掛須御諸神は、大物主神葦原志許男の国堅め給いし以後に、天より三坂岑(ミサカノミネ)に下り給いき」とある。当社はもと旧志染庄中村(現志染町志染中)に社があったが、天正年間(一五七三~一五九二)羽柴秀吉が中国征伐の途次、三木の別所長治の居城釜山攻めを行い、その際兵火にかかり焼失した。一旦は細目に遷座した後、慶長一一年(一六〇六)卯月三日に現在の地の社を移したと伝えられている。その昔、一七代履中(りちゅう)天皇が当神社にご参拝になり、「この川の流れは大変美しい」と云われた事からこの地域を美囊郡と言うようになり、また、その時御召し上がりになった御食膳の上に《シジミ貝》が這い上がったということから、この地を《しじみ》と云うようになったと伝えられている。『御坂神社 御由緒』より抜粋※一部通常と違う漢字が用いられていますが、記載のママ抜粋しております。

拝殿
交通情報
公共交通機関
東海道新幹線 新神戸駅から西脇営業所行バスで「御坂」下車約30分(バス停から約200m)
車
山陽自動車道三木東ICから約5分
駐車場
境内に数台駐車可
参拝記
初めての兵庫県神社の参拝・Google Mapでいろいろ考える
初めての兵庫県内の神社参拝。県庁所在地が神戸という位であるから、当然神がそこかしこに居る土地なのだろうと期待しつつ、今回は御坂神社に参拝させて頂く。
よくあることであるが、Google Map等で神社を検索した際に、似通った名前の神社が出て来てしまい、迷うことがある。
今回も、「御坂神社(みさかじんじゃ)」と検索して「三坂神社」「御酒神社」等がでてきて、字が違うけど何か深い理由があるのではないのか・・・・と考え込んでしまった。
WikiPediaで調べてみると、実際に三木市内には「三坂神社」「御酒神社」「美坂神社」等8箇所もの「みさか」があるそうだ。
地名というのは昔からの様々な歴史を引き継いでいることが多いので、考えてみたら当たり前かもしれない。
美坂神社は山陽自動車道の三木東ICからほど近い場所にあり、地図を見ると「志染(しぞめ)川」「淡河(おうご)川」という2つの川が合流する地点に鎮座している。
明治時代にこの淡河川から疎水を通すための工事が行われたそうなので、多少なりとも川の流路が変わっているのかもしれないが、もしかしたら御坂神社についても、川の恵みへの感謝や洪水などの脅威への畏怖などの人々の思いもこの地に鎮座している理由の一つかもしれない。
周囲は農村と住宅地に囲まれていて、まさに地域の鎮守様といった雰囲気である。
それほど大規模な境内ではないものの、中央に大変立派な舞台がある。これは能舞台のようだ。

能舞台
御祭神の不思議?
主祭神は3柱いらっしゃって、
左殿:大物主神(おおものぬしのかみ)
中殿:八戸掛須御諸神(やとかけすみもろのかみ)
右殿:葦原志許男神(あしはらしこおのかみ)
となっている。
さて、ここでやはり注目なのは中殿にいらっしゃる「八戸掛須御諸神(やとかけすみもろのかみ)」とはいかなるお方か、ということだろう。
大物主神と葦原志許男神は有名人で、一般的にはどちらも大国主神と同一神であるとされている。
ここで『播磨国風土記』をみてみよう。
(原文)志深(しじみ)の里の三坂に坐す神は、八戸挂須御諸命(やとかかすみもろのみこと)なり。大物主葦原志許国を堅めたまいし以後に、天より三坂の岑(みね)に下りたまいき。(現代語訳)志深(しじみ)の里の三坂に鎮座する神は、八戸挂須御諸命(やとかかすみもろのみこと)である。大物主葦原志許が国を堅められたその後に、天上界から三坂の岑(みね)にお下りになった。『現代語訳付き 風土記 常陸国・出雲国・播磨国 (上)』中村啓信 監修・訳注 角川ソフィア文庫 播磨国風土記 志深里の上より抜粋
風土記では「大物主神」と「葦原志許男神」をそれぞれ記載せず「大物主葦原志許」としている。
その上で、「大物主葦原志許」が国を固めた後に登場された神として「八戸挂須御諸命」を記述している。
実際、御坂神社で御朱印を頂戴する際に配布されている『御坂神社 御由緒』にも同様な抜粋と記述があり、また御坂神社の公式ウェブサイト上では
八戸掛須御諸神は御諸は御室であり、八戸掛須八方堅固な戸を掛ける意で、四方八方を堅固にかためた御室に鎮まります神との神名であって、この神も大国主の別名であるとしている。国づくりなし、治め給うこの葦原のみづほの国を平和裏に天照大神に譲り給い、身は出雲の大社にあり給う分霊を勧請して斎きまつるのがこの御坂社である。
つまり、3つの殿にそれぞれ祀られている神様は全て同一の神様だ、ということになる。
兵庫県各地に漂う「大国主神」の気配??
播磨国一宮の伊和神社の項でも記述したが、この地方には「大国主神」の気配が強く漂う。
(伊和神社の主祭神は「大己貴命」であるが、地元の神である「伊和大神」と同一神であるとされている。)
大国主神が静まる出雲とは極めて近く、大国主神率いる出雲軍団と大和朝廷との間に位置することからしても、勢力争いの中で何かあったのではないかと考えてしまう。
例えば、中殿に祀られる八戸挂須御諸命はこの地方の多くの神、豪族の象徴であり、その神を両サイドで大国主神とその同一神である葦原志許男神が固める、「反抗しないように」なのか、それとも「友好・結束の象徴」なのか・・。
なお、境内の石碑に記載された御祭神は
八戸掛須御諸神
大物主神
葦原志許男神
の順番に記されている。当然最も重要と神社が考えておられるのも八戸掛須御諸神ではないのだろうか?

由緒書石碑
時の天皇がわざわざ訪れるこの場所
播磨国風土記の美囊郡の条には「履中天皇」をはじめ、「仁賢天皇」「顕宗天皇」がそれぞれ登場する。
わざわざ時の天皇が訪れる、それくらい朝廷にとって大事な地域だったのだろう。
軍事的にも、政治的にも。
実際、その後戦国時代に秀吉が別所長治を攻めたときに兵火により焼失したという記録があり、このような軍事的にも非常に重要な地理であったことがうかがえる。
当時、まだヤマトが完全に我が国を治めている状況ではなかったと仮定すると、この地域は「東にヤマト」「北に出雲」「西に吉備」といった有力な勢力に囲まれた大変重要な地域であり、その歴史が御祭神の不思議につながっている、とするとなんともワクワクがとまらないのである。
御朱印
境内社務所にて下付
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