基本情報
鎮座(所在地)
兵庫県宍粟市一宮町須行名407
社格等
延喜式:式内社(名神大社 伊和坐大名持魂神社)
旧社格:国幣中社
神社本庁 別表神社
播磨国一宮
御祭神

拝殿・本殿
主祭神
大己貴神(おおなむちのかみ)
配神
少彦名神(すくなひこなのかみ)
下照姫神(したてるひめのかみ)
境内末社
播磨十六郡神社(西八郡)
播磨十六郡神社(東八郡)
御霊殿
市杵島姫神社
五柱社
境外摂末社
庭田神社(式内社)
与位神社(式内社)
邇志神社(式内社)
觱篥神社
安志姫神社(姫路市)
縁起
当神社は第十三代成務天皇甲申歳(西暦一四四年)の創祀と伝えられ、延喜の制では名神大社に列し、播磨国の一の宮で旧国幣中社の御社格であります。御祭神は大己貴神と申し(またの御名を大名持御魂神・大国主神とも申し、又伊和大神とも申し上げる)国土を開発し、産業を勧めて生活の道を開き、或いは医薬の法を定めて治病の術を教えるなどして大神が播磨国に特別の御恩恵を垂れ給い播磨の国中を御巡歴になって国造りの事業をされたことは播磨風土記に記載の通りであります。その後神徳を仰いで播磨国開発の祖神、総氏神様と崇め古来農業・興業・商業等の産業の神、縁結びの神、福の神、病気平癒の神として、又、御社地が因幡街道(現在の国道29号線)のほぼ中央にあたる交通の要衝にあるため、旅行者の守護神、交通安全の神として播磨国はもとより遠近の人々の崇敬篤き神様であります。約五五〇〇〇平方メートル(約一七〇〇〇坪)に及ぶ境内には杉、桧などの大樹が繁茂し、自ら襟を正す神神しさを保っております。御社殿は一の宮の名にふさわしい入母屋造の豪壮雄偉な建築であります。なお、創祀り伝説を今に伝える鶴石は本殿のうしろにあります。『播磨一宮 伊和神社 境内掲示』より

境内掲示
<由緒> 式内社。『播磨国風土記』によれば、国造りを終えた大己貴命が最後にこの地で「於和(おわ)」と言って鎮まったという。また欽明天皇の時、この地の豪族伊和恒郷に神託があり、社殿裏に残る鶴石に眠っていた白鶴を目印に社地を定めたとも伝えられている。『延喜式』では名神大社、播磨国一宮。『【縮刷版】神道事典』國學院大學日本文化研究所 編 弘文堂 発行
交通情報
公共交通機関
山陽新幹線姫路駅下車 山崎行きバスで山崎(終点)乗り換え 横山行きバス等で「一の宮伊和神社」バス停下車 徒歩1分
車
中国自動車道 山崎ICから車で15分程度
駐車場
大鳥居前に「ハリマ農協食彩館伊和の里」がありその大型駐車場に駐車可能
参拝記
外出自粛の日々は過去の神社参拝の整理で過ごす!
参拝は2019年8月末。参拝記を書かぬままに新型コロナウイルス騒動で外出が難しくなってしまった。そこで、過去の参拝記録を整理するチャンス!と前向きに考えて記録を掘り起こしつつ書きたい。
神奈川県に在住していて兵庫県というのはなかなか仕事がない限り訪問をあまりすることはないし、飛行機や新幹線で通過することはあっても後回しになっていた。
自分が会員になっている外資系ホテルの宿泊券を使って神戸市内に宿を取り、いつものレンタカーによる参拝と相成った。
播磨国一宮伊和神社に参拝
この伊和神社というのは大変興味深い神社である。一の宮なのにあまり社殿は大きくなく、それでいて大木の木々に囲まれてひっそりと、しかもその木々の鎮守の杜ぶりはすさまじい。鳥居がないと神社があるというのがわからない。
鳥居も古い鳥居で、しめ縄で結界を作っている。

社名碑・鳥居
伊和神社の本当の御祭神はどちら・・・
伊和神社の御祭神は「大己貴命」とされているが、これは「伊和大神」と同じだという。
「伊和大神」はその名の通り伊和の大神、つまり伊和一族の祖先神なのだろうが、そもそもどこで大己貴命とイコールになってしまったのだろうか?
伊和神社が鎮座する地は「宍粟(しそう)市」という市で、『播磨国風土記』には「宍禾郡(しきはのこほり)」の条に記載がある。
宍禾と名づけし所以(ゆえ)は、伊和大神(いわおおかみ)、国造り堅め了(を)はりし以後(のち)、この川、谷、尾を堺(さかい)に巡り出でましし時、大き鹿己(しかおの)が舌を出して、矢田の村に遇いき。ここに勅(みことのり)して云ひたまいしく、「矢は彼(そ)の舌に在り」といひたまいき。故(かれ)、宍禾(しき)の鹿と号(なづ)け、村の名は矢田の村と号けき。> 伊和の村。(本の名は、神酒(みわ)なり。)大神、酒を此の村に醸みたまひき。故(かれ)、神酒(みわ)の村と曰ひき。又、於和(おわ)の村と云ひき。大神、国作り訖(を)へたまひし以後(のち)、云ひたまひしく、「於和、等於我美岐」(注:本書注によれば難解な句で、『古典大系本』で「おわ、我がみきに等(まも)らむ」とされているとのこと)『現代語訳付き風土記 (上)常陸国・出雲国・播磨国』中村啓信 監修・訳注 角川ソフィア文庫
上述の通り、『播磨国風土記』では「伊和大神」を語り、実はその本文の中に別途「葦原志許乎命(あしはらのしこお)=大國主命=大己貴命」というのが出てくる。実際に葦原志許乎命は天日槍命(あめのひぼこのみこと)と一緒に登場する。つまり、『播磨国風土記』は伊和大神=大己貴命と同一視しているようにはどうしても思えない。
上述「伊和の村」の条で「伊和(いわ)はみわ(神酒)」だと書いているが、伊和神社から車で5分ほど山に入ったところに「庭田神社」という古社があり、こちらの由緒記によれば「大国主命が天日槍命(あめのひぼこのみこと)がこの地で国土経営の争いをし、最後の交渉をこの地で行い、その大事業を終えて酒を醸造してみんなで宴会をした」という逸話が残されている。
天日槍命は元々朝鮮半島からの渡来人として知られ、但馬国一の宮出石神社(いずしじんじゃ)の祭神として知られる。
大國主命と言えば出雲と大変関係が深く、出雲から因幡国を通って播磨国に向かう途上にこの伊和の地がある。
当時の力関係を顕した記述なのかもしれないが、それでも伊和大神=大己貴命はどうしても違和感が残る。
延喜式の格付けの意味とは?
私は、本当に個人的な見解であるが、延喜式によって格付けされた神社は、一つは大和朝廷の力を見せつけるために大和の創世がらみの神様が優遇されているように見えて、その実、各土地土地の有力な豪族をそれなりに処遇して、効率的な支配に用いたのではないか、と考えている。
各地の一の宮には「その神様はいったいどなた?」という恐らくその地の豪族の祖先神を祀っている場合が非常に多いと思うのだ。
例えば、相模国一の宮の「寒川神社」、伊賀国一の宮の「敢国神社」、などなど・・・。
伊和大神も恐らく大変有力な豪族で「伊和大神」として祀られていたが、その後全国的な有名人「大己貴命」が登場し、入れ替わって、その理由として「伊和大神=大己貴命」になってしまったのではないかと。すくなくとも『播磨国風土記』では「葦原志許乎命(あしはらのしこお)=大國主命=大己貴命」と「伊和大神」は別人としてかき分けられているのだから・・・。
『風土記』というのはご存じの通り奈良時代初期に全国に編纂を命じられたとされるものであるが、残念ながら現在の所本文の大半が写本などとして残っている風土記は『播磨国風土記』『常陸国風土記』 『豊後国風土記』『肥前国風土記』のたった5つに過ぎず、後は一部が『逸文』として別の文書に引用などされた部分だけがのこっているものだ。
さらに、『延喜式神名帳』における当社の記載は「伊和坐大名持魂神社」。「大名持命(おおなもちのみこと)」は大国主命=大己貴命の更に別名だ。
播磨国の場合、風土記が残っていたためにこのあたりの創世神のストーリーがある程度明確であるため、上記のように推測が出来てしまうのではないかと思う。
大雨の合間を縫った参拝
さて、当日は恐ろしいほどの大雨。神社に向かう山と山の間を走る国道を進めば進むほど驚異的な大雨。こいつはまいったなあ、ととりあえず大鳥居前のJAの駐車場で10分ほど雨宿りしていたら突然止んだので、慌てて参拝。

参道
まさに鎮守の杜で、大きな木がその歴史を物語る。
神社に向かう国道は姫路方面から鳥取方面へ南北に山を越えるが、ちょっと不思議なのは神社東側から西に向かって参道が延びていて途中で南に折れて拝殿・本殿に向かうので、神社本殿が北面していることになる点だ。
そして、一番南側の本殿裏手に伝説の「鶴石」がある。
残念ながら参道修復中で「鶴石」を拝見することが出来なかった。(倒木で危険とのこと)
神社の北側は因幡国や出雲国の方面で、彼らへのシンパシー、つまり大己貴命の国である出雲への想いなのか、それとも出雲に対する守りの意味なのか?

拝殿
創建当時であっても決して国の中心であったとは思われないこの地になぜ当社が創建されたのか?
そして当社の本当の祭神は大己貴命と同一視される伊和大神ではなく、伊和の地の有力豪族の祖先神である伊和大神ではないのか?
伊和大神=大己貴命として祀られたのに本殿が北面しているのはなぜなのか?
考えれば考えるほどわくわくしてしまう、古代史、神社ファンにはたまらない伊和神社であった。
さて、この周辺の神社を巡ってこの謎解きを続けよう!
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