基本情報
鎮座(所在地)
兵庫県神戸市中央区下山手通1-2-1

大鳥居

拝殿
創祀
神功皇后摂政元年(201)
社格等
延喜式:式内社(名神大)(摂津国八部郡 三座(大二座・小一座) 生田神社)
旧社格:官幣中社
神社本庁:別表神社
御祭神
主祭神
稚日女尊(わかひるめのみこと)
境内社
(末社)人丸神社
(末社)雷大臣神社
(末社)塞神社
(末社)松尾神社
(末社)大海神社
(末社)市杵島神社
(末社)日吉神社
(末社)諏訪神社
(末社)八幡神社
(末社)住吉神社
(末社)稲荷神社
(末社)蛭子神社
(末社)戸隠神社

(末社)稲荷神社

(末社)大海神社

(末社)市杵島神社

(末社)戸隠神社

(末社)蛭子神社

(末社)人丸神社・雷大臣神社・塞神社
境外社
(御旅所)生田神社兵庫宮
縁起
地元神戸では「いくたさん」と呼ばれ親しまれている生田神社。神功皇后摂政元年(西暦201年)三韓よりの帰途、今の神戸港の沖合で船が進まなくなった為に神占を行ったところ、稚日女尊が現れ、「私は活田長峡国(いくたながおのくに)に居りたい」と申されたので、海上五十狭茅(うなかみのいさち)によって祀られました。縁結び、健康長寿、商売繁盛、家内安全をはじめ、恋愛成就や安産祈願の御利益があり、神戸の守り神として広く御崇敬を頂いております。『生田神社略記』生田神社発行 より引用
[神宮]皇后は忍熊王が軍を率いて待ち構えていると聞いて、武内宿禰に命ぜられ、皇子を抱いて迂回して南海から出て、紀伊水門[みなと]に泊まらせられた。皇后の船は真直に南波に向った。ところが船は海中でぐるぐる回って進まなかった。それで武庫の港に還って占われた。天照大神が教えていわれるのに、「わが荒魂を皇后の近くに置くのは良くない。広田国(摂津国広田神社の地)に置くのがよい」と。山背根子[やましろのねこ]の女、葉山媛に祭らせた。また稚日女尊[わかひるめのみこと](天照大神の妹)が教えていわれるのに、「自分は活田長峡国[いくたのながおのくに](摂津国生田神社)に居りたい」と。それで海上五十狭茅[うなかみのいさち]に祭らせた。また事代主命が教えていわれるのに、「自分を長田国[ながたのくに](摂津国長田神社の地)に祀るように」と。葉山媛の妹の長媛に祭らせた。表筒男・中筒男・底筒男の三神が教えていわれるのに、「わが和魂を大津の渟名倉[ぬなくら]の長峡[ながお]に居さしむべきである。そうすれば往来する船を見守ることもできる」と。そこで神の教えのままに鎮座し頂いた。それで平穏に海をわたることができるようになった。※[]かっこ内は引用者が補足『全現代語訳 日本書紀 上』宇治谷 孟著 講談社学術文庫刊 神功皇后の項 P.195-196から引用
交通情報
公共交通機関
JR三ノ宮駅
神戸新交通、地下鉄西神・山手線 三宮駅
阪急・阪神神戸三宮駅
いずれも徒歩10分程度
又は山陽新幹線新神戸駅から徒歩20分程度
車
阪神高速道路3号神戸線 生田川IC・京橋IC出口から約5分程度
駐車場
境内生田神社会館・西門前に有料駐車場あり
(駐車台数に制限があるので、係員の指示に従って利用のこと。)
予約制駐車場のタイムズのBの利用をお勧めします。(神戸三宮駅周辺に複数の予約可能な駐車場在り。)
参拝記
神戸の地名のいわれとは?
神戸の地名の由緒と言われる生田神社に参拝。何年か前、有名なお笑い芸人が結婚式を挙げた神社として全国的に有名になった。
もともと、「神戸」(こうべ、かんべ、ごうど等)は文字通り神様と関係の深い土地であった。
私の住んでいる横浜にも「神戸」という地名があり、子どもの頃から兵庫県の神戸と何か関係があるのではないかなあ、と考えたりしたものである。
大人になって神社を巡って日本全国様々なところを巡っていると、「神戸」の地名がそこかしこ二の小手いることに気づかされる。

楼門
古代律令制下、特定の神社に与えられた民戸。民戸が負担すべき税(租、調、庸など)は全て神社に奉献されたほか、社殿の改修、清掃といった神社二関わる様々の労役に従事した。祝(ほふり)などの神職も神戸の中から撰ばれた。皇族や上級官人に民戸を給付する封戸の一様で、有力神社や朝廷の為に功のあった神社に対して与えられた。したがって、神封戸(じんふこ)とも呼ばれた。ただし神戸と神封戸を区別する説もある。『新抄格勅符抄』(しんしょうきゃくちょくふしょう)によると大同元年(八〇六)特において全国で六千戸の神戸が存在した。最大は宇佐八幡宮の千六百六十戸。ついでは伊勢神宮の千百三十戸。一方一~二戸の神戸しか持たない神社も多い。また『延喜式』神名帳に搭載された神社の中で神戸を有するものはごく一部にすぎない。『【縮刷版】神道事典』國學院大學日本文化研究所編 弘文堂発行 の「神戸(かんべ)」の項より抜粋・引用
生田神社は44戸の神戸(かんべ)を朝廷より賜ったとされていて、前述の宇佐八幡宮や伊勢神宮などと比べると少ないが、日本で最も有名な「神戸」は当社であると思われる。
神戸「三宮」なのに三宮じゃない?
当社は三宮駅のすぐ裏手で飲食店街が立ち並ぶ町並みの真ん中にあり、極めて歴史のある古社でありながら地元の住民が買い物ついでにふらっと参拝に訪れる、こんなイメージがわくような非常に親しみの深い神社に感じられる。
私もよく一宮だけではなくその地の二宮や三宮を参拝する計画を立てることが多いのだが、この生田神社周辺の三宮という駅名である。
生田神社の鎮座する地域は摂津国にあたるのだが、生田神社はこの国の三宮とされているわけではない、調べてみると生田神社の摂末社に「三宮神社」があり、この神社の名前が三宮の地名に反映されているということらしい。(そもそも摂津国の三宮は不明もしくは「ない」と言うことになっている。)
最も中心を成す 兵庫県神戸市中央区三宮町に鎮座する神社 一宮から八宮までの神社の中の三柱目に当たり 祭神は 天照大御神の御子である 女神 湍津姫命(たきつひめのみこと)を祀る。当社は 周辺の「三宮」という地名の由来にもなっている。三宮神社ウェブサイトより引用
この神戸の周辺に一宮~八宮があるそうで、その詳しい内容は神戸八社巡りウェブサイトにくわしい。
生田神社の氏子地に一~八の番号のついた神社があって、この三宮から現在の地名がつけられた、ということらしい。
ちょっと複雑であるが、神戸の三宮はこちらも全国で最も有名な「三宮」なのにいわゆる一般的な一宮・二宮の三宮ではない、というあたりが大変興味深い。
今我々はこの一宮・二宮・三宮をある種の格付けというか重要度の違い、といったイメージで捉えているが、この神戸のケースから見る限り、決して中近世においてこの格付け的な数字も絶対的な全国的かつ国家的なものさしという側面だけではなく、1より2や3が低いというばかりではなく、1番目、2番目といった側面もずいぶんあったのだろうと想像する。
生田神社の三大エピソード
さて、生田神社の話に閑話休題。
生田神社は非常にエピソードが多い神社でもある。
その1 神功皇后伝説
最も古い、そして鎮座に関わる最も有名なエピソードは神功皇后ゆかりの地であるという点である。
神功皇后は三韓外征の帰路において、この地(現在の神戸港周辺)で船が進まなくなったので占ってみたところ、稚日女尊が現れて、「私は活田長峡国に居りたい」といわれたので、海上五十狭茅(うながみのいさち)という者に祀らせた、という由緒である。
この短いエピソードにも沢山の?が湧いてくる。
そもそも主祭神とされる稚日女尊とはいったいどんなお方なのか?
字をそのまま読むと「若い女性の神様」という意味にしか取れないが、「天照大神の和魂(にぎみたま)」又は「天照大神の妹神」とされている。つまり、よく分かっていない神様なのである。
『日本書紀』神代亀上第七段第一の一書に出てくる神で、アマテラスともその御子とも妹ともいうが不詳。大日女(オオヒルメ)にたいして稚日女(ワカヒルメ)といったもの。ワカヒルメは斎服殿(いみはたどの)で神之御服(カムミソ)を織っていたとき、スサノオが班駒(ぶちこま)を逆剥いで、殿内に投げ入れたのが原因で亡くなった。『【縮刷版】神道事典』國學院大學日本文化研究所編 弘文堂発行 の「ワカヒルメ」の項より抜粋・引用
日本の神様の中で最も格式の高い天照大神の親族でありながら、日本書紀の中ではこのように「さっと」軽く扱われている不思議な神様に思える。
なぜこの神様が神功皇后に「この地にいたい」と言ったのか、これも非常に不思議である。
神功皇后はこのように兵庫県内(そのうち旧摂津国内)に同様のエピソードを三カ所残している。
それぞれ、
廣田神社(主祭神:天照大神の荒魂 祀らせた人:山背根子の娘 葉山媛)
長田神社(主祭神:事代主神 山背根子の娘 長媛)
そして生田神社(主祭神:稚日女尊 祀らせた人:海上五十狭茅)
こうみてみると、生田神社だけ少し違和感がある。
祀られた神様は「稚日女尊」というはっきりとしない神様、そして祀らせた人は海上五十狭茅というこれもまた不思議な「人選」なのだ。
海上五十狭茅の海上(うなかみ)はどうやら現在の千葉県の海上郡(現在の旭市)あたりの国造をしていた一族で、本人はこの後に神功皇后に反旗を翻した「香坂王・忍熊王」に加担した人物のようなのだ。
その人物に神功皇后は大切な生田神社の奉斎を指示していることになる。
生田神社奉斎後に裏切ったのだろうか?
その2 源平合戦古戦場
次のエピソードが源平の合戦の古戦場となったということ。
平安末期、旧福原京を中心に、西の木戸口を摂津と播磨の国境、須磨の一ノ谷、東の木戸口を生田の森・旧生田川として砦を築き、源平の合戦「生田ノ森一ノ谷の合戦」が行われました。謡曲には源氏方「箙(えびら)の梅」、平家方「生田敦盛」として伝えられています。『生田神社略記』生田神社発行 より引用
一ノ谷の戦いでは有名な義経の鵯越(ひどりごえ)等があり、最終的に平家が敗走したものの、安徳天皇とともに三種の神器の奪還に失敗し、平家滅亡へのつながっていくことになる。
その3 灘の生一本・酒造り
最後のエピソードは「灘酒造り」である。

(末社)松尾神社(酒の神様)
古代、朝鮮の要人が我が国を訪れた折、「難波上陸の前に敏売崎にて、生田神社の神職が醸した神酒おもてなした」と記されています。神職がもてなすとは①心身を清める「祓い」②遠路寄りの来訪を歓迎し「慰労」するという重大な意味があり、灘の銘酒の起源と関わりがあると思われます。『生田神社略記』生田神社発行 より引用
神戸市のウェブサイトによれば、「灘地方の酒造りは1624年に西宮における醸造が最初」「伝承的にはさらに元弘・建武の昔(1336年)より行われていたようです。」とされている。
この「朝鮮の要人」というのが朝鮮通信使であるとすれば、室町時代から江戸時代の期間で、初めての来訪が1375年頃らしいので、灘で酒造りの文化が芽生えるきっかけを作ったのが生田神社であったというのは十分に考えられます。風土や気候などが酒造りに適しているのであろう。
生田神社というのは、非常に有名な、しかも地元の方だけではなく全国的な知名度を誇る神社で在りながら、来歴を見ていくと次々様々な面白いエピソードや疑問点が湧き上がってくる神社である。
約1年近く前に参拝し、とりまとめを怠っていた為に、結果として新型コロナウィルス騒動で外出が規制される状態になる今の今まで放置していまっていましたが、様々な文献を横に置きながら「想像の世界」の歴史・神社散歩には最適な不思議な神社であった。
御朱印
社務所にて授与(生田神社及び弁財天の2種類)
御朱印と共に三枚の絵はがきを拝受した。
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