
基本情報
鎮座(所在地)
千葉県香取市香取1697-1
社格等
延喜式 式内社(名神大社)
旧社格:官幣大社
勅祭社
神社本庁別表神社
下総国一之宮
東国三社
御祭神
経津主大神(ふつぬしのおおかみ)(又の御名伊波比主大神)
御神徳
家内安全、産業(農業・商工業)指導の神、海上守護、心願成就、縁結、安産の神、勝運、交通 安全、災難除け
縁起 参拝のしおりより
大神は皇祖の神々の御神意を体して鹿島の大神と共に出雲の大国主命と御交渉の結果、円満裡に国土を皇孫に捧げ奉らしめ、更に国内の荒ぶる神々を平定して、日本建国の基をお築きになり、又東国開拓の大業を完遂されて天皇を中心とする我が国体の確立に大きな御業績を著された。
国家鎮護の神、皇謨守護の神として、古来皇室の御崇敬厚く奉幣使の御参向もしばしば行われた。
上古より「神宮」と称せられ、古い社格では名神大社、下総国一之宮で明治以降の神社制度においては官幣大社に列し、更に毎年陛下のの御幣帛の供進があり、六年毎に勅使御参向の勅祭社に指定されて今日に至っている。
又一般には東国開拓の大業を崇め奉って国運開発の神、武道(勝運)の神、交通安全の神、民業指導(農業・商工業)の神、海上守護の神として全国的に深く信仰されている。
宮柱の創建は神武天皇十八年と伝えている、現在のご本殿は元禄十三年徳川綱吉の造営で、昭和十五年拝殿その他と共に国費により大修繕が行われ、昭和五十二年本殿が重要文化財に指定された。
構造は本殿、中殿、拝殿、相連れなる所謂「権現造」である。
交通情報
公共交通機関
鉄道
JR佐原駅下車 タクシーで10分又はコミュニティバスで15分
コミュニティバスのルート・時刻等の情報はこちらから
JR香取駅下車 徒歩30分(約2km)
高速バス
東京駅から関鉄グリーンバス「鉾田駅行(70分)」 香取神宮前下車 徒歩約5分
東京駅又は浜松町駅から京成バス・千葉交通バス「銚子行き小見川ルート(70分)」 佐原香取IC下車 徒歩15分
車
東関東自動車道佐原香取ICから約1.5km
駐車場
参道商店会入口付近に第1駐車場(約100台) 総門まで約550m程度(坂道・階段・段差あり)
佐原香取IC側・姥山神社下に第3駐車場(約130台) 総門まで約350m程度
※総門までの距離は第3駐車場が近いですが、参道前の商店会をそぞろ歩き・食べ歩きがしたい方は第1駐車場がおすすめです。
[参拝記]
東国三社の一つで、東国三社巡拝の旅として参拝。息栖神社から車で30分程度、参道脇商店会脇の大型の駐車場に駐車して参拝に臨む。
ここ二年場から膝の調子が悪く、斜面や階段がちょっと怖い。
入口及び参道脇に大きな境内マップを見ると、総門まで約550mとある。
総門から先に少し階段があるが、その手前は「だらだら」かつ「ちょっと」くねった坂道になっている。
山道前の商店会には多くの店で「厄落としだんご」や「わらび餅」を販売している。ちょっと観光地価格だがうまそう。
商店会を抜けると本格的に神社の境内の風格が漂う。
長年守られてきた神木が荘厳な雰囲気を醸し出している。
面白いのは、鹿島神宮同様「要石」が存在していて、鹿島は凸型、香取は凹型だということ。
向こうにあるならこっちにもあるぜ、ということなのか、はたまた仲が良いと言うことなのか。




鳥居をくぐり、階段を上がると立派な朱塗りの総門がある。

その内側に本殿及び拝殿。
ご祭神は「経津主(フツヌシ)」とされ、その和御魂(にぎみたま)である。
本殿は徳川将軍五代徳川綱吉によって造営されたと伝えられている。


恐らく後述する経緯から、本御祭神が武神・軍事の神様として崇敬されたことに起因すると思われる。
『日本書紀』のなかでイザナミからカグツチが生まれた際に火傷でイザナミが命を落としたことに怒ったイザナギがカグツチを斬った際に、見からしたたり落ちた血が固まって出来た神様がフツヌシの祖先であるとされており、天孫降臨神話でニニギノミコトが地上に降り立つ前に、日本(葦原中国・とよあしはらのなかつくに)の平定のためにタケミカヅチ(鹿島神宮の神)とともに出雲に派遣され、オオクニヌシと国譲り交渉を行った神様とされている。
その際に面白いエピソードがある。
『日本書紀』では、始めに葦原中国に派遣された天稚彦(アメノワカヒコ)の死後に新たに誰を派遣すべきかという段階になって、当初選ばれた経津主神(フツヌシ)に対して武甕槌神(タケミカヅチ)が「経津主神だけが大夫(ますらお)であって、私は大夫ではないというのか!」と激怒して結果として両者が派遣されることになったという経緯である。
言うまでもなく、経津主神(フツヌシ)は香取の神、武甕槌神(タケミカヅチ)は鹿島の神であり、今は両者が茨城県と千葉県北部を守る神様となっているわけだ。
『日本書紀』を見ると香取の神が最初で、鹿島の神は後のようにも見受けられる。
おもしろいのは『古事記』には経津主神(フツヌシ)が登場しないことだ。
『古事記』では経津主神(フツヌシ)が登場せず、その子の建御雷神(タケミカヅチ)を派遣しよう、というストーリーになっている。
少なくとも『日本書紀』のなかではある種のライバルとして描かれており、実際に香取神宮と鹿島神宮は今の千葉県北部(下総国)の一宮、茨城県(常陸国)の一宮、と同格に捉えられている。
地理的にもほぼ利根川や外浪逆浦、北浦等をを隔てて向かい側に存在している。(現在と恐らく地形は異なっており、このあたりは大きな浦や港のようになっていたと思われる。)
経津主神(フツヌシ)や建御雷神(タケミカヅチ)は後に大和朝廷内部で強大な権力を握る藤原氏の神様であり、奈良県の春日大社の祭神として知られる。
一説によれば、この茨城県や千葉県北部地方は藤原氏の前身である中臣氏(そもそも神職の家系で「中臣鎌足」が大化の改新で有名)の拠点であったとも言われる。
ただ、そもそも経津主神(フツヌシ)は物部氏の神様であったはずである。有名な奈良県の石上神宮は物部氏を祀っている神社で、昔の武器庫であると言われていて、刀などが祀られている。
蘇我氏が仏教を輸入して展開しようとしていたときに、物部氏や中臣氏は仏教を排しようと闘っていた時代がある。
その後、物部氏は衰退し、中臣氏は藤原氏の名前を得て、中央政界を席巻することになったのだ。
中臣氏は経津主神(フツヌシ)を「パクって」しまったのだろうか、ともおもう。
前段に少し記載したが、鹿島神宮にも香取神宮にも荒魂を祀る奥宮があり、地震を起こすナマズを抑えるという「要石」がそれぞれある。
鹿島の神と香取の神は一体と言われながら、あらゆるところで競っているように思えるのは私だろうか?
それは、それぞれの主祭神が『日本書紀』で意地を見せて競っていた、そのときの風景が現代にも見えるようでちょっとわくわくする。
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