延喜式内社巡りとは — 一一〇〇年前の台帳を手に、古社を訪ねる
「歴史がある神社」を、検証する方法
神社の由緒書きには、しばしば途方もない年代が記されている。「創建は崇神天皇の御代」「神武東征のみぎり」。だがその多くは、江戸期あるいは明治以降に整えられた伝承であり、文献による裏づけを持たない。
私は三十年以上、御朱印を集めながら全国の神社を訪ね歩いてきた。その中で次第に強く意識するようになったのが、「その古さは、確かめられるのか」という問いである。
この問いに答えを与えてくれる、ほとんど唯一の物差しが延喜式神名帳だ。
延長五年(九二七)に完成したこの台帳に社名が載っているということは、少なくともその時点で朝廷が官社として公認していたことを意味する。伝承ではなく、文献上の事実として、一一〇〇年前の実在が確定する。
そこに記載された神社を、延喜式内社(えんぎしきないしゃ)、あるいは単に式内社という。
このカテゴリは、その式内社を訪ね歩いた記録である。
『延喜式』とは何か
まず母体となる書物を押さえておきたい。
『延喜式』は、律令の施行細則を集大成した法典である。延喜五年(九〇五)に醍醐天皇の命によって編纂が始まり、延長五年(九二七)に完成・奏上された。実際に施行されたのは康保四年(九六七)のことである。全五十巻、約三三〇〇条にのぼる。
このうち巻一から巻十までが神祇関係にあてられている。神事が国家運営の筆頭に置かれていたことが、巻の配列そのものから読み取れる。
| 巻 | 内容 |
|---|---|
| 巻一・巻二 | 四時祭(定例の祭祀) |
| 巻三 | 臨時祭 |
| 巻四 | 伊勢大神宮 |
| 巻五 | 斎宮 |
| 巻六 | 斎院 |
| 巻七 | 践祚大嘗祭 |
| 巻八 | 祝詞 |
| 巻九・巻十 | 神名帳(神名式 上・下) |
この巻九・巻十が、いわゆる延喜式神名帳である。
神名帳が記すこと、記さないこと
ここが式内社を理解する上で決定的に重要な点である。
神名帳が記載するのは、次の情報に限られる。
- 宮中・京中・五畿七道の国・郡ごとの配列
- 社名
- 座数(祀られる神の数)
- 官幣社か国幣社か
- 大社か小社か
- 月次・相嘗・新嘗などの幣帛に預かる祭祀の別
- 名神祭の対象であれば「名神大」の注記
そして、記載されないものがある。
- 祭神名
- 由緒・縁起
- 創建年代
- 社殿の規模や境内の様子
つまり神名帳は、由緒書きではなく行政上の名簿なのだ。誰を祀っているかではなく、どこに何座あって誰が幣帛を出すかだけを記した、きわめて事務的な文書である。
この素っ気なさが、式内社研究を困難にし、同時に面白くしている。社名しか手がかりがない以上、その社が何者であったかは、地名、祭祀氏族、周辺の遺跡、そして後世の史料を突き合わせて推定するほかない。神名帳は答えではなく、問いの一覧なのである。
数字で見る式内社
神名帳に載る神社は、全国で二八六一社、三一三二座。
内訳は次のとおりである。
| 区分 | 社数 | 座数 |
|---|---|---|
| 官幣大社 | 198社 | 304座 |
| 官幣小社 | 375社 | 433座 |
| 国幣大社 | 155社 | 188座 |
| 国幣小社 | 2133社 | 2207座 |
| 合計 | 2861社 | 3132座 |
まとめ直すと、官幣社が五七三社七三七座、国幣社が二二八八社二三九五座。大社は三五三社四九二座、小社は二五〇八社二六四〇座となる。
官幣と国幣の別
官社はすべて、陰暦二月の祈年祭で幣帛を受けた。奈良時代には各社の祝部(はふりべ)が神祇官に参集して直接受け取る方式だったが、**延暦十七年(七九八)**に制度が改められる。
従来どおり神祇官から受ける社を官幣社、その社の所在する国の国司から受ける社を国幣社とした。遠隔地の祝部が上京する困難を緩和する措置とされるが、その背景に律令体制そのものの変質があったことは疑いない。
分布にも明確な傾向がある。官幣小社はすべて畿内に、国幣大社・国幣小社はすべて畿外に置かれている。ただし遠方であっても特に重要な社は官幣社とされた。
大社と小社の別
形式上の区別は素朴なものだった。祈年祭の班幣にあたり、その社の幣帛が案(あん、供物を載せる台)の上に置かれるか、下に置かれるか。それだけである。
もちろん実際には、当時の社勢や重要度が反映されている。だが千年の時を経て残った記録が「台の上か下か」であるという事実には、どこか可笑しみがある。
名神大社
『延喜式』巻三「臨時祭」の名神祭の条に挙げられた神々を祀る社を名神大社という。国家の重大事に際して臨時の奉幣を受ける、特に霊験あらたかとされた社である。
名神祭の対象はすべて大社に列しているため「名神大社」と呼ばれ、神名帳では社名の下に「名神大」と略記される。式内社の中でも最上位の一群と考えてよい。
式外社と国史見在社
神名帳に載らない神社を**式外社(しきげしゃ)**という。
ここで誤解を避けておきたい。式外社であることは、格が低いことを意味しない。
たとえば石清水八幡宮は貞観元年(八五九)の創建で、延喜式成立より七十年ほど古い。にもかかわらず神名帳には見えない。同じく大原野神社も神名帳に載らないが、後に二十二社の一つに数えられている。
このように、六国史には社名が見えながら神名帳に登載されなかった社を国史見在社(こくしけんざいしゃ)、略して見在社という。
なぜ載らなかったのか。官社の認定という行政手続の問題であったり、編纂時の判断であったり、理由はさまざまである。だが確かなのは、神名帳は当時の神社の完全な一覧ではないということだ。あくまで「官社として把握されていた社」の名簿にすぎない。
この限界を踏まえずに式内社を絶対視すると、判断を誤る。私はこれを常に自戒している。
論社 — 式内社巡りの核心
そして、このカテゴリの実質的な主題がこれである。
神名帳の成立から一一〇〇年が経った。その間に何が起きたか。
- 衰退して廃絶した社
- 戦乱や災害で移転した社
- 近隣社へ合祀された社
- 祭神や社名が変わった社
- 文書を失い、来歴がわからなくなった社
明治期の神社合祀政策も、この混乱に拍車をかけた。
結果として、神名帳のどの社が現在のどの神社にあたるのかが確定しないケースが大量に生じている。そして一つの式内社に対して複数の神社が「うちこそが本来の式内社である」と主張する事態が生まれた。
この候補となる神社を論社(ろんしゃ・ろんじゃ)という。
論社は珍しい存在ではない。むしろ地方に行けば、比定の定まらない式内社のほうが多いほどである。ある社に三つも四つも論社が並び立ち、それぞれが江戸期以来の考証を背負って対立していることも珍しくない。
私はこの論社問題こそが、式内社巡りの最も面白い部分だと考えている。
現地に立ってみると、文献だけではわからないことが見えてくる。地形。水源との距離。古墳の分布。旧街道との関係。周辺の小字名。そうした手がかりを積み上げながら、どの説がより蓋然性が高いかを考える。答えが出ないことのほうが多い。それでも、考える材料は確実に増える。
このカテゴリの記事では、論社が存在する場合は必ずそれを明示し、どれか一つを正解として断定しない方針を取っている。断定は書き手にとっては楽だが、読者から考える機会を奪ってしまう。
巡拝の現実
最後に、実際に巡る立場から書いておきたい。
一宮巡りは約百社、二十二社巡りは二十五社殿。いずれも「完遂」が現実的な目標になる。
だが式内社は二八六一社である。桁が違う。
全国踏破を目標に据えるのは、率直に言って現実的ではない。しかも論社を含めれば、参拝すべき社数はさらに膨らむ。「何社参拝したか」というカウントすら、数え方によって揺れてしまう。
そこで私が採っているのは、旧国単位・郡単位で区切って巡るという方法である。神名帳自体が国・郡別に配列されている以上、この単位で追うのが最も理にかなっている。同じ郡の式内社をまとめて訪ねると、その地域の祭祀の構造が立体的に見えてくる。一社ずつ点で訪ねていては決して得られない視野である。
大和国山辺郡、河内国志紀郡、といった具合に。地味な作業だが、これに勝る方法を私はまだ知らない。
このカテゴリについて
記事の執筆にあたっては、式内社研究会編『式内社調査報告』(皇學館大学出版部)を一次資料として参照している。各社ごとに社名・由緒・所在・祭神・神職・祭祀・社殿・摂末社を網羅した大部の研究叢書で、これなくして式内社を論じることは難しい。
残念ながら、といっては何だが、『式内社調査報告』は巻数も多く単価も高いので、私のように研究社ではない単なる神社ファンにはかなり敷居が高い。Amazonでも一部販売はあるものの、全巻はないのではないか、と思う。一番良い手は大規模な図書館だ。図書館で借りて必要な部分のみ複写させて頂くのが最も敷居が低いかなあ・・・。
現地で撮った写真と、この報告書と、そして自分の足で得た感触。この三つを突き合わせながら、一社ずつ書いていく。
参拝記録と写真の整理が完了した社から、順に公開していく。
参考文献
- 『延喜式』巻三 臨時祭・巻九 巻十 神名帳
- 式内社研究会編『式内社調査報告』皇學館大学出版部
- 各社社頭掲示・社務所配布資料
社数・座数は延喜式神名帳の記載に基づきます。写本により異同がある場合があります。
